10.最後の夜に、ならないように


 自分用のリュックから処置セットと未開封の水入りペットボトルを取り出す。まさかこんな形で役立つことになろうとは、夢にも思っていなかった。情けない限りだ。

 それを手に取った彼が、キュッとボトルの蓋を回す。


「洗うぞ。滲みるかもしんねえけど」
「⋯⋯ありがとう」


 水が膝を流れていく。流体の感覚は心地よいのに、ピリピリと小さな痛みが広がる。膝裏を支える彼の手の温度と感触が、水を介すことでやけにありありと感じられた。細かい砂粒が洗い落とされ、タオルで水分が吸い取られる。ぺり、と聞こえたのは絆創膏が剥がれる音だ。絆創膏は右にニ枚、左に三枚を要しそうで、「鈍くさすぎだろ」と揶揄われる。

 普通の処置だ。ごく普通の、擦り傷に対する処置。なのに何故、こんなに心臓がうるさいのだろう。何故、こんなにいけないことをしている気分になるのだろう。

 無防備に足を差し出して。
 光を含んでチリチリと揺れる水を纏わせて。
 
 最後の一枚を貼り終えて、ひとつ、ふたつ。みっつめの呼吸と同時に、肺腑から息を吐き出した。気づかぬうちに息を詰めていたようだ。


「「っはあ〜〜〜〜〜」」


 その大きな溜め息が、同じタイミングで目の前から聞こえた。思わず「え?」と声に出す。


「なんで一也くんまで溜め息つくの」
「いや、なんつーか⋯⋯緊張すんだろ」


 彼は決まり悪そうに目線を逸らした。
 珍しい。こういうバツが悪そうな表情はあまり見ることがない。

 以前、捻挫の処置をしてくれた時とは明らかに態度が違う。これをどう捉えるべきか。最近の彼は本当にわからない。

 ちょっとした反撃のつもりで、ぼそっとぐちっと零す。


「自分がやるって言ってくれたくせに」
「そりゃ放っとけねえだろ、血ィ出してんのに」
「ふふ、優しい」
「は〜〜〜もうホント調子狂うわ。ほら、メシ食って稲実の試合見んぞ」
「あいてっ」


 ぐしゃっと頭をひと撫で──いや、ひと掴みと言ったほうが近いか──された。
 
 次の試合は準決勝二回戦、稲実対桜沢だ。この試合の勝者と、わたしたちは決勝戦を戦うのだ。気持ちを切り替えて、しっかりと見ておかなければ。

 歩き出しながら、そういえば、と声をかける。


「さっきの試合で沢村くんが真木さんに投げたクロスファイヤー、なんかちょっと変じゃなかった?」
「⋯⋯⋯⋯え、」
「んん、その間は⋯⋯わたしの気のせいか」
「いや⋯⋯その通りだよ、よく気づいたなと思ってさ。多分俺と真木以外わかんなかったんじゃねえかと思ってたから」 


 クロスファイヤーは、対角線に右バッターの胸元へえぐり込む、左投手特有の球の軌道だ。

 あの緊迫した場面で沢村くんがその球を投げたのは、恐らく偶然だ。無我夢中の境地みたいなものだと思う。これまで練習すらしていなかったし。


「あのクロスファイヤー、どう見えた?」
「なんか打者の手元で、さらに曲がったように見えて⋯⋯ああ、ほら、真田さんの球みたいに。⋯⋯あれ? ってことは、カットボールに近いの?」


 きょとん。
 眼鏡の奥でおめめをくりくりにして、彼はしばし固まった。先にわたしがその沈黙に耐えきれなくなり、呼びかける。


「あの、一也くん?」
「⋯⋯はっはっはっ、お前、どんどん目ェよくなってんじゃん! マジかよ!」
「わ、めっちゃ笑われる」


 褒めてもらえた⋯⋯のだろうか。自惚れかもしれないけれど、素直に嬉しい。自然と口元が緩むのを自覚する。


「沢村もな〜〜〜変化球覚えさせたいけど、いやいやどうすっかな、これ」


 ああでもない、こうでもない。
 彼の思考はあっという間に沢村くんの投球で占められてしまった。楽しそうに、しかし真剣に投手の行く末を考えている彼の横顔を、微笑ましく見つめた。





 稲実が桜沢を下し、決勝進出を決めた。これで明後日の決勝の相手は稲実に決定したわけである。あの兄から如何にして点をもぎ取るか。青道と何ら遜色ない強力打線をどう抑えるか。いずれにせよ、かなりタフな試合となる。

 頭を悩ませながらバスへ向かっている途中、突然沢村くんが「むむ! これは⋯⋯!」と難しい顔をした。


「どしたの?」
「尿意だ! 思い出した! 観戦中ずっと我慢してたの忘れてた! ははは!」
「ちょ、恥ずかしいから栄純くんは喋んないで!」


 小湊くんのピシャリとした静止も虚しく、彼は「トイレ! トイレじゃ〜!」と騒いでいる。大変だ。阿呆がバレてしまう。静かにして下さい。

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