10.最後の夜に、ならないように


「おいおい、お前、あん時のクソガキやないかい。何でブルペン入っとんや?」
「ア、アンタは! かつてこの俺が完膚なきまでに叩きのめした⋯⋯メタボリック先輩」
「メタッッ」


 東さんが自身でチャーミングポイントと称しているお腹を指差し、沢村くんは平然と告げる。


「あれ⋯⋯こんな太ってたっけ?」
「ぶっ!!!」


 沢村くんの言葉に、わたしは思わず噴き出した。な、何て強い心臓をお持ちなんだ沢村くんは。「ケンカ売っとんのかクソガキャー!」と当然怒らせてしまったのに、微塵も怯まない鋼鉄の心臓である。

 大先輩への態度はともかく、このハートの強さは見習いたい。

 東さんと沢村くんは、互いの額をぐりぐりと躙り合わせながら言い合っている。瞬く間にヒートアップしてしまった二人を止めたのは、「東先輩。久しぶりに打席でコイツの球見てみます?」という一也くんの提案だった。

 そうか。以前──十ヶ月前くらいだろうか──、東さんと真っ向勝負をした面白い中学生投手の話を一也くんから聞いたことがあったけれど、その投手が沢村くんだったのか。

 しかし、また突然の提案だ。彼にその意図を問うてみる。


「一也くん?」
「ああ⋯⋯沢村がさ、変化球投げたいって言い出してよ。あのクロスファイヤーの時のカットボール、投げさせてみようと思って」
「明日試合なのに? ふふ」
「お前はそのネットの裏で見てろよ」

 この一言に、わたしは目を丸くした。

「え⋯⋯いいの?」
「ああ。変なとこ飛んでったら危ねえし。ボールの軌道よく見えるぞ」


 どくん。心臓が大きく拍動する。

 捕手の後ろに張られたネット。その裏で、捕手と同じような景色を見させてくれるだなんて。

 ──どくん。
 武者震いのような震えが一度、全身を巡る。

 試合中、バックネット裏で観戦したことはある。しかしこんなに近距離でみるのは、実は初めてだ。

 招かれなければ近づいてはいけないような。
 兄にとっての左腕のような。

 ここは、──彼の聖域なのだ、と。

 どこかでそんなふうに思っていたからなのかもしれない。



 一也くんの背中が近い。
 グラウンドを最も俯瞰できる位置。青道の扇の要。ここぞという場面でのバッティング。攻守ともに圧倒的な存在感。彼が必ず目の前にいるということが、投手にとってどんなに心強いことか。

 いつかマウンドから一也くんのことをみてみたいな、なんて。そんなことを思う。

 右打席でバットを構える東さんに対し、一也くんは左寄りに構えた。

 昨日のあの球。真木さんへ投げてみせた、あの球。右打者の胸元に抉りこむようなクロスファイヤー。それを要求している。

 踏み込んだ沢村くんの右足が、随分と内側に入り込んでいる。普通であれば腕を振り抜けない体勢だけれど、彼はやってのける。柔軟な関節があってこその投げ方だ。下半身が余計に捻られた分の勢いを全身で球に乗せることで、球のキレも増す。

 そして、打席にどんなに怖い打者がいようとも、強気にインコースに投げ込める。沢村くんの度胸は、本日も健在である。

 球が沢村くんの指を離れた直後、正面から風が吹き抜けた気がした。これが、一也くんが毎日みている景色か。

 そう感動したのも束の間。

 勢いよく放たれ東さんの胸元に向かった球は、昨日同様に手元で更に曲り、あろうことか──東さんのお腹に直撃した。


「ぐほぉああぁ!」
 デッドボールを受けた東さんは、悲鳴を上げ仰け反った。

「メタボ先輩! どんどん投げていーっスか?! 今の感覚忘れないうちに!」
 ぶつけた当人はこの反応である。


「プロテクターからはみ出たお肉に⋯⋯ぶつかった⋯⋯ぷっくっく」
「こらこら笑うな。痛ェんだから。さっきまで逃げ回ってたくせに、お前も度胸あるんだかないんだか」


 漫画みたいな光景に我慢出来ず笑ってしまったわたしを、一也くんが窘める。

 今のが沢村くんのカットボール。
 明日の試合で登板することがあれば、一也くんはこの球を投げさせるだろうか。

 今はまだ、急場の変化球だ。実践、しかも明日の大舞台で投げるには博打が過ぎるというもの。

 しかし一也くんならあるいは──

 その場面が想像できてしまって、わたしはそっと笑みを落とした。

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