桜が咲いている。
淡い空色に薄く溶け込んだような雲。そこに可愛らしく実る桜色が、春の淡さを際立たせていた。桜の舞う、春の匂いだ。特有の高揚が乱れる。
「ほんとに連絡、来ないんだもんなあ」
ぶつくさ零しながら、落ちた花びらを踏まないよう足どり軽やかに歩道を歩く。あの電話の朝から今日までの日々を思い返していた。
一也断ちを宣言したのはわたしだし。もともと彼からの連絡は極々稀にしか来ないから、当然の結果といえばそうなのだけれど。
なんだか少し悔しい。
一方通行な想いだとわかってはいても、これだけ連絡が途絶えれば少しはわたしを意識してくれるんじゃないか、なんて。
甘いにもほどがあった。甘々だ。珈琲に角砂糖を十個放り込んだくらい甘い。
だって彼は、寝ても醒めても、ともすれば夢の中でさえ。野球のことばかり考えているようなお人である。わたしの入る隙間など、ずっと昔からないのだ。
そうだった。そんなひとだった。
「ふふ、でもそこがまたいいところ」
アスファルトの上で風に揺られる花びらに向かって呟いた。今の台詞を彼に聞かれたら、また「はい?」などと言われるのだろう。そんな想像をして口元が綻んだ。
あと
先日、高校生活に必要なものを揃えに行った。皺ひとつない制服。ピカピカの靴。まだ硬く馴染みのない鞄。部屋に並べたそれらを見るたび、ああ、合格したんだなと、合格発表から数週間経った今でも実感する。
結局、彼にはまだ連絡はしていなかった。
例えば試験終了日。例えば合格発表日。節目のような機会はいくらでもあった。
しかし三ヶ月間も連絡を取らなかったことがなかったものだから、急に緊張し、今までどんな勢いで電話していたのかわからなくなってしまったのだ。
彼から連絡が来るかも、とどこかで期待して待っていた自分がいたことも一因だった。
自分で自分の首を絞めてしまった。
三ヶ月なんて、あっという間だと思っていた。勉強に集中していれば、あっという間だと。
しかしどうだろう。
彼の欠片がない生活は、こんなにもゆっくりで平凡であっただろうか。こんなにも穏やかで、モノクロームな世界だっただろうか。
大切なものがそばにある方と。
大切なものがそばにない方と。
どちらが力を発揮できるかは人によってそれぞれだと思うけれど、わたしの場合は確実に前者だった。
声が聞きたい。会いたい。
その想いを抑えきれない。溢れ出してしまう。もう、限界だった。
なのにこのたった数ヶ月が足枷となってしまい、何を躊躇っているのかはっきりと言葉にはできないのだけれど、尻込みしてしまうのだ。
そうして勝手にひとり煮詰まって行き着くところまで行き着いたわたしは、すべてが馬鹿らしくなって家を飛び出した。
本当に馬鹿みたいだ。
会いに行こう。別に電話やメールをしなければいけないわけではない。顔を見て、野球をみて。それですべて解決だ。わたしのこころはそれで満たされる。一体何をうだうだしていたのだろう。
そして今、この桜並木を抜けて。もうすぐ通い始める高校であり、彼のいる場所でもある高校へ到着するというわけである。
彼に出逢ってから、三年と半分と⋯⋯四年といったほうが近い月日が流れた。
わたしの転機は──一度目は野球との出逢い。二度目は彼との出逢い。故に三度目の転機ということになるのだけれど──、彼と兄のシニア時代の終わり。彼が兄の誘い──稲実で共に野球をしよう──を断って、青道への入学を表明したときだった。
彼に振られた兄は、かっこよく決別したように振る舞ったはずの兄はしかし、──帰宅してからはしばらくプリプリしていて、少し大変だったのだ。
「一也ってほんとバカ! こんないい誘い断っちゃうなんてさ、後悔しても知らないもんねー」
「いいじゃん。お兄ちゃんはきっと、一也くんとはチームメイトっていうよりライバルの方があってるよ」
兄と一也くん。この二人のバッテリーは、正直なところ非常に見てみたい。想像するだけで卒倒しそうなほど、胸が高鳴る。
彼ならきっと、兄のこの性格を上手いことコントロールしたリードをしてくれる。不敵な笑みを浮かべて。こんなの朝飯前って余裕ぶって。兄もそれに応えた最高のピッチングができる。
そんなのすごくかっこいい。
だから、見てみたい。見てみたいのだけれど。これまでがそうだったからか、好敵手の方がよっぽど似合う気がしたのだ。
「お互い倒し甲斐があるね。⋯⋯でも、もしふたりが甲子園をかけて対戦することになったら、わたしはちょっと困っちゃうな」
「困ることなんてないじゃん。お前は俺を応援すんの! まったく、一也のどこがそんなにいいのさ」
「どこがって⋯⋯お兄ちゃんだって一也くんにラブコール送ったばっかなくせに」
「うるっさい」
「あははっ」
彼が兄を振ってまで行きたいと望んだ、青道という高校。そこで彼は一年生にして正捕手の座を獲り、目覚ましい活躍をみせた。