11.あふれる



 月が近い。
 夜空にぽっかりと浮かんだ月が、静かにグラウンドを照らしている。柔らかな光がたゆたう。

 瞼を閉じると、眼裏に浮かび上がる。グラウンドを駆け回る先輩たちの姿。朝から晩まで球を追い、バットを振る。その姿に幾度力をもらったかわからない。

 この日々が、ずっと続くような気がしていた。

 また溢れそうになる涙を、奥歯を噛み締め堪える。
 
 その時だ。誰もいないグラウンドに、靴底が砂を擦る足音が近づいてきて、顔を向ける。


「⋯⋯一也くん」
「帰らねえの?」
「うん、もうちょっとだけ」


 ベンチに掛けぼうっと月を見上げていたわたしの横に、彼が座る。試合が終わってから話すのは、これが初めてだ。というか、まともに顔を見るのさえ初めてだ。

 その表情をそっと窺い見る。

 ⋯⋯目は赤くない、か。

 一也くんが泣くところを、わたしは見たことがない。泣くことはあるのだろうか。彼に、泣ける場所はあるのだろうか。そう考えながら、「よくここにいるってわかったね。どしたの?」と問う。


「お前さ、何かあるとグラウンド見えるとこにいんだろ。なんとなくだけど、今もいるんじゃないかと思って。ははっ、ドンピシャ」


 力のない声だ。空回ったその笑顔に、ぐ、と胸が締め付けられる。つられるように眉根を寄せると、突然彼の手が伸びて来て──両頬をぎゅむと潰された。


「⋯⋯にゃにひゅるの」
「ひでえ顔」
「ひゃ、ひゃひゅやくんのふぇい!」
「ははっ、何だって?」


 わたしはそんなに落ち込んで見えたのだろうか。わざわざ探しに来させてしまうほど、沈んでいたのだろうか。

 グラウンドに立っていた選手に、一番悔しいはずの選手に、こんなふうに気を遣わせてしまう自分が不甲斐ない。

 それなのに、そのあたたかさに触れ性懲りもなく涙が滲み始める。ふるふるとかぶりを振り「ふふ、涙腺がちょっとご乱心」と惚けてみせると、殊のほか真面目な顔をした彼に、殊のほか真剣な眼差しで見つめられた。


「⋯⋯名前⋯⋯。いーよ、我慢しなくて。今なら先輩たちも⋯⋯誰もいねえし」
「⋯⋯え」
「見られたくないんなら、見ねえから。ひとりで抱え込むな。お前が笑ってないと⋯⋯俺も進めねえ」


 その理由を問うよりも先に、涙が縁を越え溢れ出してくる。不意打ちだ。こんな優しさ、聞いていない。


「⋯⋯⋯⋯ふ、」


 手の甲で目元を拭う。拭っても拭ってもとめどない。俯いていると、彼の手が後頭部に触れた。そのまま引き寄せられて、額を彼の胸に凭れさせられる。


「⋯⋯っ、かず」
「いーから」


 酷く優しい声音だった。
 もう片方の手が背中に回り、ゆっくりと力が込められる。とくん、と。聞こえるのは彼の心臓の音だ。

 とくん。とくん。

 抑えきれなくなった嗚咽が漏れる。
 ややあって、頭のてっぺんに彼の頬が乗る感触がした。彼から涙は落ちないけれど、こころで落ちる音がする。

 とくん。とくん、と。

 彼は、わたしの涙が止まるまで何も言わずに抱きしめていてくれた。背を擦ったり、頭を撫でたりしながら。抱きしめていてくれた。





 どれくらい経ったのだろう。
 涙も枯れ、彼の胸に頬を凭れさせたままぼんやりと宙を見つめる。いや、見つめると呼べるほどのものでもない。焦点は合っていないように思う。泣き過ぎて頭ががんがんする。ぼやけて思考がクリアにならない。


「⋯⋯名前?」


 控え目な声が上から落ちてきて、わたしはそのまま「⋯⋯なに?」と返す。

 こんなに泣いてしまって、こんなに甘えてしまって、恥ずかしいどころの話ではない。合わせる顔がないとはまさにこのことだ。どんな顔をしたら良いのかわからない。


「あ、起きてた。あんまり静かだから寝ちまったかと思った」
「ふふ、寝ないよ、降谷くんじゃないんだから」


 もぞもぞと彼の腕のなかで身を捩る。少しだけ上を向いてみた。思っていたよりも彼の顔がすぐそこにあって、今更ながらこの状況がとんでもないということに気づく。


「あっ、あの、もう大丈夫! あ、いや、大丈夫ではないんだけど、でも大丈夫!」


 いつまでも懐古し浸っているわけにもいかない。これを乗り越えて、進まなければならない。頭では、そう理解している。

 こころがまだ、追いつかないのだ。

 わたしの場合、こればかりはもう少し時間がかかりそうだ。でも、彼が力をくれたから。必ず前を向くと言い切れる。

 腕が解ける気配がなくて、今度はもう少ししっかりと見上げてみる。わたしを見下ろした彼と目が合った。

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