11.あふれる


 その瞳がかつてないほどの優しさを湛えていて、わたしは魅入ってしまった。ともすれば枯れたはずの涙さえ溢れそうになるほど、優しい眼差しだ。

 しかしそれが却って不安を呼ぶ。


「⋯⋯一也くん? 大丈夫?」
「ああ、俺は⋯⋯お前が代わりに泣いてくれたし。お前が笑っててくれさえすれば、な」


 そういえば、つい先程もそんなことを言っていた。わたしが散々泣いてしまったせいで理由を聞けなかったのだけれど。

 ねえ、とわたしが声を掛けかけるより僅かに早く、親指で目尻を拭われる。その時初めて、涙の名残があったのだと気づく。顔の感覚も随分と麻痺してしまっている。彼のシャツにもあちこちに涙の痕が滲んでしまっていて、わたしは慌てて謝った。


「ごめん、汚しちゃって」
「んなもん気にしてねーよ」


 少し間を置いてから、彼が口を開く。


「⋯⋯なあ、あの日俺が言ったこと、覚えてるか?」
「? あの日?」
「お前が、気持ちを伝えてくれた日」
「⋯⋯そりゃあ覚えてますとも」
「あん時はほんと悪かった、俺も酷えよな。謝るから⋯⋯はは、そんな不貞腐れた顔すんな」


 あの時のことを思い出し、むう、と唇を尖らせていたところを窘められた。添えられた手のひらはそのままに、指先だけでとんとんと優しく背を叩かれる。

 彼の視線が一度、グラウンドに向けられた。そこには愁哀と、一抹の寂寥と。そして確かな強い決意が宿っていた。

 ──俺は先に進むぜ。

 そう言っている気がした。


「もう逃げねえ。逃げてちゃ、何も手に入らねえ。何も、⋯⋯守れねえ」


 未だにわたしを抱いたままの彼の腕が、微かに震えている。彼の体温が熱い。見つめられる視線が──熱い。

 その熱にあてられた心臓が、徐々に強さを増していく。

 ゆっくりと彼の唇が開く。






「──⋯⋯好きだ、名前」






 それはあまりにも唐突で、わたしの思考はぱたりと止まってしまった。頭が真っ白になっていく。


「っおい、名前、息しろ息!」
「えっ、あ、息⋯⋯」


 促されるままに息を吸う。頭が真っ白になったのは酸欠のせいだったのか。思考だけでなく息まで止めてしまうとは。沢村くん直伝の「すーはー」がこんな場面で役に立った。息を整えて、彼に向き直る。


「あの、一也くん、今なんて⋯⋯?」


 耳を疑う、という言葉をこれほど体感したことはない。

 もう一度。
 もう一度、聞かせてほしい。


「⋯⋯ったく、そんな何回も言わねえからな」


 恥ずかしそうに視線を逸らした彼が、わたしの目線を切るように腕に力を込め直した。


「⋯⋯名前」
「⋯⋯⋯⋯っ」


 名前を呼ばれただけで、肌がぞくりと立つ感覚に襲われる。鼓膜から胸の奥へ。震えが伝わっていく。


「──好きだ」
「⋯⋯っ、か⋯⋯ずやく、」
「ははっ、お前どんだけ泣くの?」
「それ、ほん、と?」
「嘘なんかつくかよ」


 夢を見ているのだろうか。
 
 ずっと、ずっと。焦がれてきたひと。届きそうで、届かなくて。それでも追いかけ続けたひと。

 ──夢みたいだ。

 俄に信じ難くて頬を抓ってみる。よかった、ちゃんと痛い。ついでに彼の頬も抓ってみる。


「何?」
「⋯⋯夢かと思って」
「夢なんかじゃねえよ。⋯⋯信じらんねーか?」


 これには素直に頷いた。
 あの日彼は、夏大が終わるまで待ってろと言った。しかし誰が一体、こんなことを予想しながら待つだろうか。


「まあ、それは俺が悪いか⋯⋯」


 わたしの気持ちが少し落ち着くまで待ってくれてから、彼はぽつぽつと話す。


「きっと、ずっと前からだよ。気づいた時にはもう、お前は俺の世界の真ん中にいた」
「⋯⋯野球は? どこにいるの?」
「何言ってんだ。お前と野球はいつも隣だろ」


 本当に何言ってんだ、といった表情をされた。心の底からそう思っていそうな間の抜けた表情に、思わず笑みが溢れる。

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