「キャプテンか⋯⋯」
自室でぽつり、呟いた。
決勝戦のあと二日間の休みを挟み、明日から新チームでの練習が始まる、という夕のことだった。監督に呼ばれ、スタッフルームの戸を叩いた。部長と副部長が揃っている中、監督から直々にキャプテンに任命されたのだ。
俺にキャプテンが務まるのか。百人近い部員を纏め、率い、チームを勝利へと導く道標になる。
俺に、出来るのだろうか。
哲さんのように。
ずん、と肩にのしかかったもの。それを、責任とか重圧とか使命とかと呼ぶのだろう。
「───⋯⋯」
部屋の照明に右手を翳す。ギイと椅子の背もたれが唸った。
多分俺は、先日の決勝戦を──一生忘れることが出来ない。自分の未熟さを嫌というほど突きつけられた。初めて野球が怖いと思った。
何よりも、初めて名前を失ってしまうかもしれないと思った。
あいつがどんなに俺を想ってくれているか、とうの昔から知っている。結果が如何であれ、その想いが変わらないことも。
それでも、泣き腫らしたあいつの顔を見た瞬間。失くしてしまうかもしれない、と思ったのだ。
翳らせたくない。
泣かせたくない。
いつでも笑おうとするあいつを、守りたい。
「キャプテン、か」
もう一度呟く。
翳していた右手を、強く握った。
その時だ。机の上でブブブと携帯が振動した。良いタイミングで掛けてくんじゃん。その相手を想い描き、口元が緩むのを自覚する。
「おう」
『一也くん、こんばんは』
「何だよ改まって」
『だって⋯⋯』
「何、もしかして一昨日のことまだ照れてんの?」
『っ違うもん!』
「ははっ、どうだか」
今でも鮮明に蘇る。腕に抱いた小さな身体。ころころ変わる表情。仄かに香る髪。やわらかく甘い唇の感触。
どれもが自分の腕のなかにあったことが、信じ難く思えることがある。あいつは「夢かと思って」と言いながら俺の頬を抓ったが、今はその気持ちがわかる。
抓られたい。いや変な意味ではなくて。これが紛れもない現実なのだという、確固たるものがほしい。
こんなにも愛おしいのに。よく今まで躱したり逃げたりはぐらかしたり出来たもんだな、と過去の自分に驚きを隠せない。
早く会いてえな。
そう声に出してしまいそうになって、すんでで堪えた。早く会って、抱き締めて。もっと大人のキスをしてやりたい。
そんな衝動に駆られる。
その衝動を右手をぱたぱた振って追い返す。ルームメイトに「外で話してくるわ」と目線で合図し、部屋を出る。
むんとした空気が押し寄せた。まさに夏本番だ。夜だというのに蒸し暑さが纏わりついてくる。話しながら階段を降りる。下のベンチにでも座って話そうと思った。
『明日から新チームだね。皆切り替えられるかな』
「乗り越えようとしてるぜ。沢村なんて、さっきビデオ観せてくれって言ってきたし。ノリがちょっと心配だけど⋯⋯まあ、やるしかねえよな」
皆それぞれが前を向こうとしているのが、この二日間にも顕著だった。過去は変えられない。しかし俺たちにはまだ、もう一度チャンスがある。
次こそは、──必ず。
「名前、俺さ」
『うん』
「キャプテンになった」
俺の一言を機に、ピタリと音が止んだ。
電話の向こうで固まる様が容易に想像出来る。たっぷり五秒ほど沈黙を貫き、名前は問う。
『⋯⋯何になったって言ったの?』
「キャプテン」
『聞き間違いじゃなかった⋯⋯一也くんが、キャプテン……』
今、何を考えているだろう。名前は俺の性格を良く知っている。キャプテンになんか向いてない、とか、らしくない、とか。そんなことでも考えているだろうか。
反応を窺っていると、電話越しに穏やかな息が耳元を転がった。
『ふふ、格好いい』
「はあ?」
『一也くんがキャプテンかあ』
その物言いに、どっと気が抜けてしまった。そのことが逆に、思っている以上に神経を尖らせ張り詰めていたのだということを示唆した。
それまでの緊張が伝わってしまっていたのか、名前が懸命に言葉を選んでいるのがわかる。
『大丈夫だよ。一也くんは一也くんのやり方でキャプテンになっていけばいいよ。最初からキャプテンな人なんていないし⋯⋯』
穏やかな声に、心が凪いでいく。
「⋯⋯ん」
『昔習ったけど、人はね、人と人が支え合うから人っていう漢字なんだって。キャプテンと部員が支え合うからチームっていう字なんだね、まあ今考えたんだけど』
「適当かよ」
『あはっ』
笑ってしまう。こいつがいてくれるなら大丈夫だ。まんまとそんな気にさせられてしまう。
っとに、敵わねえな。
『一也くんがひとりで全部背負うことないよ。皆で分け合いっこしよう。⋯⋯教えてくれてありがと。また明日ね』
「おやすみ。腹出して寝んなよ」
『んんん! 寝ません!』
この先きっと、様々なことが起こるだろう。名前とも、部員とも。それでも、何があろうとも。こいつのことだけは離さない。
そう誓って、電話を切った。