兄が甲子園で決勝進出を決めた日の、夜も遅くのことだった。
TVで放送された準決勝のハイライトを観終え、もう少しで日付が変わろうかという頃だ。そろそろ寝ようとベッドに潜り込んだ時、頭元の棚に置いていた携帯が鳴った。表示された名前を見て、顔が綻ぶ。最近は彼から連絡をくれることが増えた。
こうして電話をくれることもあるし、些細な出来事をメール──彼は今でもひとつ前世代の携帯を使っている──してくれることもある。
そんなところにも彼の変化が感じられて、その度に実感が募っていく。
ああ、わたしは。彼の日々のなかに居られているんだな、と。
「はあい」
電話を取る。変に間延びした声が出てしまった。思っているよりも眠気がすぐそこまで来ている。
『悪ィ、寝てたか?』
「ううん、ちょうど寝ようとしてたとこなだけ。一也くんも遅いね」
『皆で食堂で激闘甲子園観てた』
「ふふ、わたしも観た」
『⋯⋯鳴、勝ったな』
「うん。さっき電話もきてた。相変わらず元気そうだったよ、お兄ちゃん。応援来い来いって騒いでた」
決勝くらい俺のことだけ応援してくれたっていーじゃん!
ぷりぷりした兄の口調が蘇る。
母は初戦から甲子園球場に応援に行っている。姉たちも決勝には行くと言っていた。ちなみに、つまり、現在我が家は母が不在の状況であり、姉たちとわいわい家事を分担しているというわけである。
一番目の姉に料理を教えてもらっているのだけれど、これがなかなか上達しない。なかなかというか、まあ驚くほど上達しなくて、日に日に料理中の姉の口数が減っていく。申し訳ない限りである。
『そうそう、それ聞きたかったんだよ。名前、甲子園決勝行かねーの? 去年はうきうきしながら行ってただろ、稲実の初戦から』
「ふふ、懐かしい」
昨年、わたしが中三の夏。
夏休み中だったし、部活や塾があったわけでもなかったから、わたしは初戦から甲子園球場に入り浸っていた。
初めて足を踏み入れた、その瞬間。足元から身体中に響くような歓声に、息が止まったのを覚えている。熱が違う。空気が違う。音が違う。その場の何もかもがわたしの知る世界とは違っていて、鳥肌がおさまらなかった。
あの場所は、──特別だ。
『名前にとっては家族の事情だからな。夏休み中だし、練習休む分には問題ないけど』
「去年は半分くらい旅行気分だったけど⋯⋯今はもう、あの場所には一也くんと、青道の皆と行きたいなって思う。お兄ちゃんのことは応援したいけど、でも、⋯⋯ちょっと複雑な気分」
『⋯⋯そっか。まあ俺も、名前が行くなら行くで複雑だけどな』
「ふふ」
もう、知ってしまった。
あの場所へ、彼が、彼らが懸ける想いのおおきさを。
知ってしまった。
野球の怖さを。勝負の無情さを。チームの絆を。
わたしだけが簡単に、軽い気持ちで行くわけにはいかない。そう思ってしまう。ごめんお兄ちゃん。わたしここから応援します。
『お前が後悔しないならいーんだけどさ、鳴のやつ、怒るぞ⋯⋯』
「⋯⋯怒る、ね⋯⋯いや、もし優勝したらうっきうきで帰ってきて穏便に終わるんじゃないかな」
『あいつがそんなタマかよ』
「あはっ、ごもっともです」
勝っても負けても、これが最後。
この夏にそんな勝負に挑めるのは、全国の中でたった二チームだけだ。四千を超えるチームの中で、たった二チーム。
そこにいる兄のことを、心底誇りに思う。
『けど、姉ちゃんたちも行くんだろ? 平気か?』
「うん。お父さんはお仕事休み取れなくて、行けないんだ。だから夜には帰ってくるし」
『ならよかった。何かあったら連絡しろよ』
「ありがとう。でももう高校生だもん、お留守番くらい出来るよ」
『お前怖がりだからな。いざそん時になったらわかんねえだろ。誰もいない家に帰るって、慣れてねえと堪えるし』
さらりと放たれた一言。
しかし刹那、わたしは言葉に詰まった。
彼は何度、そんな日々を越えてきたのだろう。父の仕事場と家がひとつになっているとはいえ、年端もいかぬ幼い頃から。明かりの灯らぬ家に帰る日々を。
その言葉に、少しだけ、ほんの少しだけ。彼のこころのやわい部分がみえた。気がした。
その部分を、気づかれないように包めるひとになりたいと願う。彼は素直に甘えてくれるタイプではないから、それならば。
気づかれぬように。そっと。
「あ、そうだ⋯⋯一也くん」
瞼が重たい。少しずつ意識に靄がかかっていく。ベッドに潜ったまま話すべきではなかったか。そう後悔するも時既に遅し。睡魔が襲いくる。
「⋯⋯沢村くん、大丈夫?」
『⋯⋯は、沢村?』
「最近のピッチング、ちょっと気になって⋯⋯内側、投げれてるかなあって」
『もともとコントロールは良いほうじゃねえからな。確かに最近コース甘いこと多いけど』
「なんか、まだ⋯⋯だめな気がして」
『駄目って?』
彼の声に包まれながら、意識が微睡んでいく。この上なく贅沢な心地だ。
『⋯⋯名前?』
返事をした、つもりだった。実際に声になったかは定かではない。耳元のちいさな機械から聞こえる彼の声が、気遣うような優しさを孕んだ。
『おやすみ、名前』
この言葉が、この日の最後の記憶だった。