甲子園が終わったというのに変わらない、いやむしろ多いくらいのギャラリーの中を、クーラーボックスを抱えて歩く。
「おっ、名前ちゃん、おはよ。昨日は残念だったなあ、兄貴」
お久しぶりのおじさんたちである。おはようございます、と挨拶をして、わたしは一度クーラーボックスを地面に置いた。おじさんたちとの話はついつい長くなることが多いし、何よりクーラーボックスが重い。
それはそれは重い。
入部してからわかったことだけれど、マネージャーは力仕事が結構多い。おかげでこの四ヶ月で少しばかりか筋力がついたような、少しばかりか身体が引き締まったような気がしなくもない。
「はい⋯⋯いい試合でした」
「⋯⋯やっぱ兄貴の涙は堪えるか」
「ふふ」
延長十四回の力投の末、兄は甲子園に散った。テレビに映った兄の涙に、胸が締め付けられた。
その残響が、──まだ残る。
「強豪ひしめく甲子園でさえ、兄貴から四点も取ったチームは青道以外ねえんだよな。次こそは行きてえな!」
「頑張ります!」
力強く頷いた、その時だった。
「ねえ、君。マネージャーでしょ? 何を頑張るの?」
「え?」
斜め後ろから掛けられた低い声に、振り返る。
なんだか今、ものすごく良くない言葉を投げかけられた気がする。穿ってい過ぎだろうか。純粋に「どんなことを頑張るのか」と問われただけだろうか。
しかしその声音に、嘲た含みがあったこともまた確かだ。
自然と怪訝な面持ちで、声の主を見る。
背丈のそこまで大きくない、初めて見る風貌のおじさんが、右手で顎髭を弄りながら小難しい顔でこちらを見ていた。
「マネージャーって、一種のマスコット的なポジションだろ? 女子マネージャーを取らない学校だってあるし⋯⋯何か頑張ることってあるの?」
「な、」
当人を前にして何て物言いをするんだろう、この人は。
頬に血が集まるのを感じる。お腹の奥からふつふつと湧き上がるのは、悔しさに似たものだ。この感情に既視感を覚え、記憶を辿る。
──ああ、そうだ。
あの日、先輩とティーバッティングをしていた時。同じようなことを言われた。野球もしたことがないやつに何がわかるのか、と。
かたん。
ずっと残っていた蟠りが、腑に落ちる音がした。
そうか。世の中には、マネージャーをそういうふうに捉えている人が少なからずいるのか。
個人の価値観や先入観、固有概念はまさに千差万別。自らのそれとの相違にその度に一憂していては、自らが信じられなければ、自分が惨めだ。
わたしはわたしの信念を貫けばいい。一也くんや兄はきっと、それが揺るがぬから強いのだ。
例え誰かと衝突することがあっても。
しかし、ここはスルーだ。スルーに限る。何事にも難癖付ける人もいるものだ。グラウンドで、どこの馬の骨とも知れぬおじさんと喧嘩をするわけにもいかない。
「オイオイアンタ、随分な口だなあ。名前ちゃんのこと何も知らないだろ」
おじさんの一人が咎めるように口を挟んでくれた。
「いいんです。わたし、失礼しますね」
気にしたら負け。相手にしたら思う壺。スルーだ。そう言い聞かせ、地に置いたクーラーボックスを手に取る。早くこの場を離れよう。俊敏に踵を返した背に、追い打ちをかけるように声が掛かる。
「なるほど。選手だけじゃなくギャラリーも味方に付けるか⋯⋯女子マネージャーってのは強か、なんだな」
「っ!」
手を滑り落ちたクーラーボックスが、ドサッと音を立て転がる。
スルーなんて!
出来ますか!
こんなこと言われて!
おじさんたちは純粋に野球が好きで、青道が好きで、こうして応援してくれている。わたしだけならまだしも、おじさんたちまで侮辱するような言い方。
許すまじ。我慢できません。
向き直り、一言物申そうとした──その刹那。横から手を掴まれ、強く引かれる。
「名前、行くぞ、何してんだ」
「わ、か、ずやく」
有無を言わさぬ力で引かれ、難癖おじさんとは逆方向に向かわされる。いつの間にか彼の片手には、わたしが落としたクーラーボックスがあった。おじさんたちの間を抜ける最中、慌てて謝罪する。
「ごめんなさい! あんなふうに言われて言い返せなくて」
「なんだ、俺らのこと言われたの怒ってくれたのか。優しいなあ」
「御幸、助かった。フォローしてやってくれ」
「俺らは気にしてないから」
「うう、皆さん、わたし不甲斐ないです⋯⋯!」
そう言い終わる頃には、ギャラリーの間を抜け終わっていた。