14.夜の吐息の落ちぬ間に


 ──知らない天井だ。

 霞む視界であることを差し引いても、見覚えのない風景。身体に馴染まない寝具。

 どこだろう、ここ。

 異様なほど身体が重い。眼球まで重たくなったようだ。のろのろと視線を動かすと、視界の隅で人影が動いた。


「ん、目ェ醒めたか?」
「⋯⋯ふふ、一也くん」


 知らない場所で目醒め、信じられない程の重だるさも相まって不安がせり上がってきた時だった。

 大好きな声。
 
 刹那的にここは大丈夫な場所なのだと理解する。彼が、隣にいてくれるからだ。自然と笑みが溢れた。

 次いで、記憶が徐々に蘇ってくる。

 家にさえ辿り着けば何とかなると思っていた。甘かった。自己管理能力の低さが浮き彫りとなってしまった。

 なんと言っても諸悪の根源は、昨日。クーラーの効いたリビングの床で朝まで寝てしまったことだ。

 父と二人で。
 仲良く大の字で。

 駅に向かう途中で予想以上に熱が上がってきてしまい、地面を踏めしめる感覚が朧気になった。あ、やばいかな。そう思った時には身体は傾いでいて、改札前の大きな柱周囲で屯していた男性の背にぶつかってしまった。

 それがまたなんともチャラい一団で、しかし熱もまたなんともえげつない勢いで身体を牛耳っていて、彼らに上手く対応することが出来ぬまま、腕を強く引かれ、力の入らない足は縺れた。

 掴まれた腕に感覚が残っている。
 
 有無を言わさぬ、一種の暴力。
 大声で「痴漢です!」とでも言えたら格好良かったし、あの人たちの狼狽する様も見られたのに。

 ──怖い、と。

 思ってしまったのだ。

 圧倒的な力の差。わたしひとりの自由など簡単に掌握できるのだと言わんばかりの高慢な物言い。怯んだ舌は回らず、地面に擦った膝と強く掴まれた腕から痛みが広がり、じわじわと心が侵食されていく感覚だった。

 だから真田さんたちが来てくれて、本当に、本当に救われたのだ。

 この辺りまでは覚えている。それ以降は断片的だ。

 彼はフローリングに腰を下ろし、片膝を立てそこに肘を乗せている。高さからして、わたしは布団に寝ているのだろう。


「今、礼ちゃんが親父さんに何回目かの連絡取ってる。なかなか繋がんなくてさ」


 部屋の明かりが煌々と灯っている。日は既に沈んだのだろう。彼もユニフォームではなくジャージ姿だ。肩にタオルが掛かっているから、お風呂上がりなのかもしれない。


「⋯⋯今日は、皆出張でお父さんしかいないって言ってた、から⋯⋯お父さんにも⋯⋯申し訳ないことになっちゃった」
「仕方ねえよ、気にすんな。水飲むか?」
「お水⋯⋯? ほしい」


 問われれば忽ち口渇を自覚する。喉の奥がひり、と痛い。ミネラルウォーターを用意してくれていたようで、彼は、上体を捻ってペットボトルを手に取った。

 起き上がろうとして、しかし腹筋にはほとんど力が入らなかった。それを見た彼が、「寝てていーよ」と制する。

 
「でも、寝てたら水飲めな、⋯⋯い」

 
 彼の取った行動に、わたしの言葉は尻すぼみになった。
 てっきりわたしにくれるのだと思っていた水を、彼がおもむろに口に含んだのだ。

 不意に、彼の頭部で蛍光灯が遮られた。彼の指先がわたしの頬にかかる。


「一也く、⋯⋯ん、っ?」


 次の瞬間には、彼の唇がわたしの唇に触れていた。その不意打ちに反射的に閉じた隙間を、彼の舌が少し強引に割る。そこからほんのり温かい液体が流れ込んでくる。

 ──こくん。

 喉が、音を立てた。


「⋯⋯っ、」
「な? 飲めたろ」


 彼は口の端をぺろ、と舐め笑んだ。

 飲めたけど、そうじゃない。
 全然そういうことじゃない。

 身体に掛かっていた薄手の布団を引き上げ、顔を埋める。わたしたちの関係に名前がついてからというもの、彼にやられっぱなしだ。

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