03.花細し桜


「御幸くんがウチに来てからは、こうしてここにも来ていたし⋯⋯まあそれで、ちょっと探りも入れたりして」


 くい、と眼鏡の縁が持ち上がる。
 その仕草と得意気な表情に、わたしはたじろいだ。探りって。一体わたしの何を探られてしまったのだろう。

 そう考えて、別に探られて困るような秘密も経歴もないことに思い至る。普通の子でよかった。


「ウチに受かったんでしょう? マネージャー、やらないかしら?」


 ここで、先程と同じ問いに戻る。考えてもみなかった勧誘に、咄嗟の言葉が出てこない。

 わたしはただ、彼のそばにいたくて。この高校に来たのだ。それがすべて。だからこれまでと同じように、ここから見守るつもりだった。

 そんなわたしが、マネージャー?


「ずっと見てきたんでしょう。野球が、好きなんでしょう?」
「はい、それはもう。でも、見てただけなんです。兄と、かず⋯⋯御幸先輩を」
「ええ」
「本当に見てただけです。スコアも付けたことがないし、部員への細やかな気配りみたいなのもできないし、お料理とかお裁縫とかもできないし、」
「そういうのはいいのよ。むしろ最初からできる子なんていないわ。そしてお嫁に行くわけじゃないんだからお料理とかは関係ないわ、おにぎりくらいしか握らないわよ」
「はあ、おにぎり」
「私はね、苗字さん。あなたのその野球への熱を、活かしてほしいの。私たちに力を貸してくれないかしら」
「え⋯⋯と、」


 言葉に詰まる。戸惑いを反映するように定まらない視線が、宙を彷徨う。真っ直ぐにわたしを見つめる彼女の目を、見つめ返すことができない。

 熱は、ある。
 あると思う。

 しかし、貸せる力などない。
 選手たちはそれぞれ何かを懸けて、何かを賭して、必死に日々を越えている。そんな中にわたしがいては、かえって足を引っ張ってしまう。

 このやり取りを見守っていたおじさんたちが、不意に「名前ちゃん」とわたしを呼んだ。聞き慣れた声にとても安堵する。安堵してはじめて、酷く緊張していたのだと自覚する。


「名前ちゃん。俺らもいいと思うぜ。つーかてっきりマネージャーやるもんだと思ってたよ」
「そうそう。俺らが太鼓判押すよ。こんなに野球(と御幸)を想ってる子が、外から観てるだけなんて勿体ねえ」
「それに名前ちゃんはいい目を持ってる。これまでは知識がなかっただけで、その目は絶対にチームの力になるよ。一年間一緒に野球を観てた俺らが言うんだ」
「⋯⋯目? ですか?」


 ここぞとばかりにフフ、と笑った高島先生が、とある選手を指差した。


「例えばね。あの子を見て、あなたはどう思うかしら?」


 初めて見る選手だった。
 ということは恐らく新入部員なのだろう。非常に大きな声で、元気は満ち満ち満点。左投げ。ということは兄と同じサウスポーだ。

 その彼が、ちょうど遠投をするところだった。

 どんな経緯かわからないけれど、他の部員も彼の遠投に注目している。どうやら奥のフェンスまで球を届かせたいようだ。

 皆の視線を受け、大声とともに彼が投げる。その球は、ともすればフェンスまで届くと思われたその球は、──あろうことか途中でギューンと方向を変え虚しく落ちた。

 地に転がった球が、そこはかとなく切ない。その球が完全に止まったのを見届けてから、一秒、二秒、そして三秒。わたしは徐に唇を開く。


「⋯⋯なんだか気持ち悪いです」
「⋯⋯?」
「上手く言えなくてごめんなさい。変というか、気持ち悪い曲がり方した球だなあって、そう思って⋯⋯あと投げ方がちょっと、違和感が⋯⋯具体的に言えなくて、その」
「いいわ、ありがとう」


 わたしと同じくグラウンドに注がれていた彼女の視線が、再度わたしに移る。


「素敵な才能だわ。いえ、時間をかけて積み上げたものなのかしら⋯⋯どちらにしろ、やっぱり私はあなたが欲しい。すぐにとは言わないわ。考えておいてね」
「⋯⋯はい」


 ゆっくりと頷いた。
 取り敢えず考えてはみようと思う。選手側の意見も聞いてみたい。今晩は兄に電話をしよう。

 この首肯を満足そうに見てから背を向けた彼女は、「あ、」と何かを思いついたように再度振り返った。


「御幸くんには会って行く? もうすぐ休憩に入ると思うから、声掛けてくるわよ」
「あ、いえ、」


 ここに来るだけで感情が大変だったのだ。それなのに会う、だなんて。今日の今日ではとても勇気が出ない。よってこの申し出は謹んでお断りしようとした、そんな時だ。


「あら、ちょうどこっちに来るみたいね。それじゃあ、また新学期にね」
「え」


 ニコッと微笑んで、彼女は颯爽と去ってしまった。嵐にでも遭遇した心地である。さらにそこに彼が近付いてきているというおまけまで付いている。

 遠くから姿を見ただけで感極まってしまったのだ。接近などできない。だからせめて、わたしに気付かずに通り過ぎてほしい。

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