14.夜の吐息の落ちぬ間に



「⋯⋯名前⋯⋯?」


 手を握った途端に瞼を閉じ、そのままぴくりとも動かなくなった名前の顔を覗き込む。すう、と穏やかな寝息が聞こえて胸を撫で下ろす。

 無理をさせてしまった。
 ただでさえ身体が弱っている時に、一体何をしているんだ。今となってはそんな後悔が押し寄せる。

 しかし、俺たちが、今日ここで。身体を重ねることは、ずっと前から決まっていたのだと。

 導かれたかのような。

 ──そんな夜だった。

 世迷い言と言われてもいい。そう感じたのだ。

 乱れた前髪を払い、目尻に溜まった涙を拭ってやる。服着せてやったら、起きた時怒るかな。そんな懸念がよぎるものの、身体の状態を鑑みて実行に移す。その最中も名前は目を醒まさなかった。

 自分も服を纏い、布団に潜り込む。


「⋯⋯寝たら部屋戻ろうと思ってたんだけど、いーや。離れたくねえし」


 胸の内が、ぽそ、と独り言となって落ちた。

 名前の一挙一動、言々句々を思い出すだけで、下半身が疼く。何度だって抱き潰せる。

 こんなにも愛おしい。
 大切にしたいと心から思う。

 名前に腕を回し、目を閉じる。熱い体温がやけに心地よい。眠気が誘われる。





 夢を、見ていた。

 薄く刷かれたような雲が伸びる青空。高い。雲が高くにあるせいか、空そのものも遠くにあるかのような。秋の空だ。からっとした空気が心地よい。

 俺はその空を、仰向けになって見ていた。

 背の感触は芝。視界の下方にフェンスが映る。どこかの球場の外野だな。瞬時にそう思う。


『名前』


 上半身を起こし、俺より三歩分前に立つその背中に声を掛ける。名前は振り向かない。腰の後ろで指を交互に絡めるようにして、ふわりと空を仰いでいる。

 緩やかな風が、後ろから吹き抜ける。
 
 吹かれた髪が舞う。表情は見えないが、なんとなく笑っているような気がした。


 ──ああ。この日の光景だったのか。
 
 名前のことを考えると浮かぶ光景だ。いつの記憶だったのか、ずっと思い出せなかった。


『名前』


 もう一度、呼ぶ。
 振り返った名前が、口を開いた。


『─────』






 腕の中のぬくさがもぞっと動いたのを感じて、瞼を持ち上げる。ぼんやりと明るい光が網膜を刺激した。


「おはよ、一也くん」
「⋯⋯ん、⋯⋯?」
「ふふ」


 指先が俺の頬をつついた。ああ、名前か⋯⋯と安心して目を閉じようと──しかけて、俺は慌てて目をこじ開けた。

 名前?
 なんで、ここに。

 そして唐突に昨夜のことを思い出す。そうだった、あのまま名前を抱きながら寝たんだった。ぐっすり眠ったようで、全身が軽い。

 お返しとばかりに名前の頬に手を添える。


「⋯⋯起きてたのか」
「ううん、今起きたとこ」
「熱は?」


 頬から額へ手のひらを滑らせる。ほんのりと温かい気がするが、平熱の額を知らないから分からない。しかし少なくとも昨日のような高熱ではない。


「あっても微熱くらいかな、と自分では思う、けど、」
「けど?」
「その⋯⋯」
「? 何だよ? そんな勿体つけて」


 頬を染めたりあっちこっちを見たり忙しく表情を変え、名前は、最終的に胸元でもちょもちょと動かしていた指先に視線を落とした。


「⋯⋯身体が動きません。あとなんか服着せてもらってる」
「はっはっは」
「な、わらっ、笑わないで〜〜〜!」


 胸をくすぐられるような、この感覚は何と言うのだろう。名前があるのなら教えてくれ。ころころと心の中を転がり、くすぐり、愛おしさで包んでくれるこの感覚を、何と呼べばいいのかを。

 堪えきれない笑みを浮かべていると、名前がじいっと見ていることに気づく。それはそれは穴が空きそうなほどに。


「? 今度は何?」
「眼鏡取った一也くん⋯⋯やばい」


 眼鏡もスポサンもかけていない顔を誰かに見せることは殆どない。寮でもアイマスクを付けているし。

 つつ、と名前の手の甲をなぞる。


「お前は特別。けど⋯⋯昨日の名前も最高にやばかったぜ」
「〜〜〜〜〜〜〜っ、」


 先程よりさらに顔を紅く染め、頭のてっぺんまで布団に埋もれてしまった。笑いながらぼふぼふと頭のあたりを撫でる。

 枕元に転がっていた携帯で時間を確認する。五時二分。いい時間だ。


「俺先に準備してくるわ。お前はもう少し身体休めとけよ」
「⋯⋯⋯⋯はあい」


 布団の中からもごっとした返事が返ってきた。


 名残惜しく感じながらも部屋を出る。まだ気温が上がってきておらず、早朝独特のしんとした空気が肌に触れた。空は既に明るみ始めている。雀が飛び立った梢が揺れた。葉が青々と眠りから醒め出す。

 ──綺麗だな。

 心の中でひとりごちた。





 ◇夜の吐息の落ちぬ間に◆

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