16.空の彼方のクジラみたいに


 秋大ブロック予選二回戦の、二日前のことだ。


「え! クリス先輩来てくれたの?」
『そ。沢村のあの顔、名前にも見せてやりたかったな。インコースに投げられない今だからこそ響く、アウトローの大切さを伝えてもらっちまった』
「そっか。これまでの沢村くんになかった武器になるといいね」
『ああ。⋯⋯悔しいけど、俺が言うより効くからな』
「ふふ、なんと言ってもクリス先輩はわたしたちの師だから」
『はいはい、しっかりお前も弟子に入ってんのね』


 お風呂から上がり部屋に戻ると、携帯がまさに着信を奏でている最中だった。
 故にわたしは今、まだ濡れている髪の水気をタオルで押さえながら話している。


「いいなあ、わたしもその場にいたかったな。わたし、わりと本気で寮に住んじゃいたい。そしたら朝から晩まで皆と練習できるし。ね、ダメなのかな? この間借りた部屋とか⋯⋯ダメなのかな〜〜〜」
『それはちょっと無理じゃねえの⋯⋯この間ぶっ倒れた時とは事情が違えし。まあ監督案件だな』
「住みた〜〜〜〜い」
『わかったから電話で駄々捏ねんな』


 これは野球部での生活を送るにつれ、次第に大きくなってきていた想いだった。

 初めはただ、一也くんの野球を追いかけて青道を選んだ。彼の姿をみていられれば、それでよかったから。

 しかし、今やすっかり身も心も野球部の一員である。もっと野球に向き合いたい。もっと皆と一緒にいたい。出来ることが少しでもあるのなら、役に立ちたい。

 そんな想いが膨れ上がる。


『万が一可能だとしてさ、親は? いいのか?』
「あっ、うちの家族、野球にはすごく理解があるので」
『ははっ、そりゃ違いねえけど。寂しくねえか?』
「それは⋯⋯そうだね、やっぱり寂しい、と思う。お兄ちゃんが家を離れたときでさえ、ちょっと泣いちゃったくらいにしてね、ふふ。でも、一也くんがいるから。それに⋯⋯後悔はしたくないなあ」
『そっか。俺らも名前がいてくれりゃあ助かることばっかだしな。まず一応、親父さんたちに聞いてみろよ。話はそれからだ』
「うん」


 電話を終えたあと、階下へ下りた。
 スポーツニュースを観ながらお茶を啜る父と、先日話題になった芥川賞受賞作品を捲る母に、早速問うてみる。


「ねえ、お父さんお母さん。わたし、寮に住んでもいい? もっと皆と野球したいの」


 ぱち。ぱち。
 単刀直入な言葉に顔を上げたふたりは、交互に瞬きをした。五秒ほど沈黙が漂う。ニュースの音が変にうるさく聞こえた。

 沈黙を破ったのは母だった。


「いいわよー、学校側がいいのであればね。通学時間も長いし、毎日朝早くて夜も遅くて、大変そうな名前見てるのも辛かったのよねえ」


 これが返答。
 まるで友達の家にお泊りをするかのような軽さである。


「俺も反対はしないけど、やっぱり女の子一人は心配だな。近くにセキュリティしっかりした学生寮とかないの?」
「学生寮? そんな手が」


 ちゃちゃっと調べてみると、なんと正門の目の前に学生寮が存在していた。わたしはこれまでに何度、この建物の前を素通りしてきたことだろう。

 その場にいた誰もが──つまりわたし自身もだけれど──、わたしの周囲への注意力のなさに閉口した。

 青道は私立だし、他の部活も強い。
 クラスにも何人か遠方出身者がいる。彼らは下宿や、こういった寮に住んでいるのだろう。


「ね、ここから通ってもいい? あ、お金のこととか⋯⋯」


 やや言葉尻をすぼめながら、二人を見る。
 そこにはいつもと変わらぬ大きな大きな笑顔があって、ああ、これが親というものか。と、その笑顔だけで妙に得心してしまった。

 胸がじんわりとあたたかい。


「お金のことは大丈夫。こんなに真剣に向き合いたいものに出逢えるって、人生の中でなかなかないのよ。だから、後悔のないように突っ走りなさい。ねえお父さん」
「うん。名前と鳴を見てると、俺も混ざりたくなるくらい眩しいよ」
「ふふ」


 少しこそばゆく感じながら、皆でスマホの画面を覗き込む。間取り図や設備、セキュリティなどを確認する。


「ここ、いいじゃない。ご飯もしっかり出るみたいだし。次の休みにでも見に行ってみましょ。ここなら週末はこっちに帰ってこれるしね」
「そうだな。⋯⋯まあ俺は実はちょっと寂しいけど」
「あらやだ、お嫁に行くんじゃないんだから」
「もう、お父さんもお母さんも大好き! 週末は帰ってくるようにするね!」
「ふふ、こんなときばっかり大好きだなんて」
「ううん、いっつも思ってるよ。あっ、お母さんたらそんな顔して⋯⋯本当だよ。大好き。突然のわがままだったのにありがとう」


 正規の学生寮のため学校的にも何ら問題はなく、驚くほどスムーズに寮からの通学が叶うこととなった。

 昨年兄が寮への引っ越しをしていたこともあり、両親の手際はそれはそれは素晴らしいものだった。見学をしたその週末には、あれよあれよとプチ引っ越しが済んだのだった。







 誰もいない静かな部屋。

 近場とはいえ、生まれ育った家を、ずっと一緒にいた家族のもとを離れたということが急に現実味を帯び、寂しさが部屋中に満ちる。

 兄も、一也くんも、皆も。
 そして、送り出す家族も。

 こんな切なさを抱えて、越えて、それをおくびにも出さずに野球に心血を注いでいるのだと思うと、より一層胸が苦しく締まった。

 強くなる、ということの意味を。
 強く立つ、という厳しさを。

 ひとり、ベッドで丸まり考えながらその夜を渡った。

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