16.空の彼方のクジラみたいに


 その約一週間後のことである。


「⋯⋯ドキドキする」
「んなもんしたってしょーがねえだろ。引くの俺なんだし」
「だって一也くんのくじ運って絶対両極端な気するもん」
「両極端ってどんなだよ?」
「決勝まで強豪と当たらないか、初戦から強豪が犇めくか、ぜっっったいどっちかだよ」


 秋大の本大会抽選会場に、わたしは一也くんと来ていた。
 西東京。東東京。夏と違って東西が合わさったトーナメントであるから、夏には意識していなかった名だたる高校も勢揃いしている。

 この中から、一校のみ。
 秋は一校のみがセンバツへの切符を手にできる。

 各校を代表する面々を興味深く見回しながら、一也くんのムラっ気に文句を──あ、真田さんだ。
 彼もわたしに気がついたようで、めちゃくちゃいい笑顔で手を振られ、反射的に手を振り返す。反対側を向いていた一也くんは気が付かなかったみたいだ。


「いーじゃん。どうせ全部ブッ倒すことには変わんねえんだから」
「秋大獲って、監督続投させるんだもんね」
「そうそう。それに犇めいてたほうが燃えんだろ?」
「ふふ、さすが」


 つい先日、例年とは異なるこの時期に、急遽三年生の引退試合が行われた。その際に片岡監督が秋大後に監督を退くつもりらしいということを知った一也くんが、こう言ったのだ。

 秋大で優勝し、センバツ出場を決めれば。監督はチームを去ることなどできないだろうと。

 監督を取り巻く大人の事情は、わたしたちには全てはわからない。監督がどんな気持ちでわたしたちを見ているのかも。ただ、言えることはただひとつ。辞めてなんてほしくない。監督を、甲子園に。


 ──獲るぞ、秋大。


 そう静かに、しかし確固たる信念で告げた彼の背中はとても凛々しかった。


「いやいや、あの日のお前もさすがだったよ」
「? なんかしたっけ?」


 あの日──引退試合の日──をさっと思い返してみるが、特段何もしていない。
 もう懐かしいと感じるようになってしまった三年生のユニフォーム姿を、相対する現役選手の背中を。感慨深く見つめていただけだ。ほんのひと月前までは、この場所で。朝から晩までともに汗を流していたのだと。

 対する彼は何を思い出しているのか、そして何が楽しいのか、一人思い出し笑いに勤しんでいる。


「だってよ、監督が辞めるかもっつって皆動揺してんのに「よかった、優勝したら監督辞めないんだ⋯⋯じゃあ大丈夫だね。わたし落合コーチ苦手だから困っちゃうところだった」だぜ? 東先輩ん時といい、変なとこで図太いよな」
「いえいえ沢村くんほどでは」
「いやあいつはただの馬鹿」


 しれっとそう言ってのけた彼は、ひと呼吸分の間を取ってからワントーン声の調子を下げた。


「名前お前⋯⋯あの日のこと、まだ気にしてんのか?」
「う、」


 なんとなく気不味くて、言葉に詰まってしまう。彼には落合コーチとひと悶着起こしたあの場面を見られていたのだから誤魔化しようもないのだけれど、だからこそ情けなくて気恥ずかしい。


「⋯⋯だって、あんなふうに散々嫌味言われて(わたしの堪忍袋が)爆発寸前までいったおじさんが、まさか新しいコーチだなんて思わないじゃない? 毎日毎日顔合わせにくいったらないです」
「たまにしてる変な動きはそれか。隠れてんの?」
「ふふ、バレてた。それにわたしまだ怒ってるの。結構根に持つタイプだったみたい」
「はは、お前は野球のこととなるとな」


 野球のこと。部員のこと。大切な人たちのこと。わたしの中で護りたいものは、相手が誰でも、どんな時でも、揺るがせたくないと思う。
 傲慢な想いかもしれない。身勝手で強欲なのかもしれない。それでも、そんな強さを持っていたい。


「大丈夫だ。絶対行くから。甲子園」


 ぽん、と頭に彼の手のひら。
 この数日──引退試合のあとから──で、より大きくなったように感じる。それだけ三年生の影響力とは大きいものなのだろう。

 ──負けるなよ、お前達は。

 そう言った結城先輩たちの想いに、応えたいと。あの場にいた誰しもが思ったに違いない。夏の敗戦の記憶。三年生の涙。全国を手にする険しさは、皆身を持って知っている。


 不敵に笑む彼を見上げ、力強く頷く。それを満足そうに見て、彼は立ち上がった。


「じゃ、引いてくる」


 数分後、彼の手により抽選箱から抜かれた数字が、わたしたちの運命となるのだ。
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