16.空の彼方のクジラみたいに


 本大会初戦の相手。
 常勝軍団と呼ばれる東地区の強豪、帝東高校。

 別地区の高校であることに加え、なんせ新チーム始動後の初戦なので情報が少ない。偵察の機会もあるはずがなく、今回は高島先生が調達してきてくれたDVDを皆で囲んでいる。

 やはり注目は彼。
 帝東の一年生エース。向井太陽。

 松方シニア出身の二人は何度か対峙したことがあるというし、実はわたしもみたことがある。

 そして突撃訪問をしたことがある。


「向井くんにはね、ストライクゾーンの奥行きが見えるんだって。ね、金丸くん」
「え? や、俺そこまでは詳しくねぇよ。何回か戦ったけど話したことはないし」
「あ、そうだったの」


 東条くんは? と視線を向けてみるけれど、彼も同様に首を振った。


「お前は何で知ってんだ?」
「一也くんが高校生になってからは中学生の試合はほとんど見なくなってたんだけど、たまたま球場の前通ったときなんかに野球の音が聞こえたら、つい足が向いちゃうんだよね。その時たまたま見かけて」
「もはや中毒! 野球中毒!」
「中毒?!」


 こんなことを言ってくるのはもちろん沢村くんである。そして毎日毎日夜中まで練習に明け暮れている沢村くんにそんなことを言われるのは、非常に心外である。

 というかわたしがそうなら、ここにいる全員がベースボールホリック(?)だ。いや、正しいのかもしれないけれど。


「それで、抜群のコーナーワークがなんだか気になって、あと雰囲気がお兄ちゃんに通ずるものがあって勝手に親近感湧いちゃって、ええい! って直接聞いてみたことあるの」
「野球に特化したこの行動力とコミュ力よ」
「もっちー先輩⋯⋯? 特化ってなんですか特化って」
「ヒャハハ! 褒めてんだって」


 むうと軽く口を尖らせてから、わたしは続ける。


「確かにベースの形には奥行きがあるし、その概念も理解はできるんだけど、そんな投球が実際にできるんだって素直に感心しちゃって⋯⋯凄いよね。あの頃よりレベルアップしてるのは乾さんの力もあるのかな」
「⋯⋯オイ名前ちゃん」
「はい?」
「名前ちゃんの豆知識のせいで、コレとコレとコレがえらいことになってんぞ。ああ、あとコレも」


 コレ@は降谷くんで、「負けない⋯⋯」と立ち昇ったオーラが天井に届きそうになっている。
 コレAは沢村くんで、「奥行きとか何だか知らんがとにかく負けーん!!!」と鼻息を荒くしている。
 コレBは川上先輩で、静かな闘志に「同じサイドスローとして⋯⋯!」みたいな気概が宿っているような気がする。悪魔で想像だけれど。
 そして、コレCは一也くんだった。不機嫌そうに唇を結び、むすりとしている。


「? なんで一也くんまで」
「うるせーよ」
「な、なんで怒ってるの」
「ヒャハハハ、拗ねてんだよな? 御幸」
「だからうるせーって」


 同ポジションの闘争心──一也くんのは少し違うのかもしれないけれど──とは難儀なものだなと、皆の顔を見て思う。こうして様々な好敵手に触発され、進んだり立ち止まったりしながら強くなっていくのだろう。







「結構な雨だからな。スタンドは濡れちまうし、風邪引くなよ」
「うん」
「まぁ引いてもまた看病してやるけど」
「っ⋯⋯う、」


 本大会初戦。雨。
 暗い雨雲がグラウンドの真上を深々と覆う、十月二日だった。

 ベンチに向かう一也くんと、スタンドに向かうわたし。センターに「S」を掲げたチームキャップをわたしに目深に被せ、悪戯に笑んで彼は言った。

 看病と言われるとどうしたってあの夜を思い出し、頬に熱が集まってしまう。


「⋯⋯一也くんこそ」
「これで風邪引いてちゃ野球できねぇよ。⋯⋯よし、行ってくる」


 彼が掲げた拳に、こつりと拳を合わせる。その触れる一瞬に、ありったけを込めた。







 ──雨が降りしきる。

 湿り気を帯びたシャツはいつの間にかぐっしょりと濡れ、髪から水滴が落ちる。帽子のおかげで目元は濡れないのに、目の前の雨で視界が霞む。

 雨に香るグラウンドの匂い。
 昨年まで、観戦していただけの頃はこの特有の雰囲気も好きだった。泥に塗れる選手たちも。予期せぬハプニングも。一也くんのマスクが雨粒を弾く様も。

 しかし今は、純粋には楽しめない。

 応援するだけのわたしにとってさえコンディションが悪い。この中で普段通りの力を発揮しなければならない選手たちは、堪ったものではないだろう。

 こういう状況への対処は、場数や経験がものを言う。つまり、先発の降谷くんなんかはその点まだまだ未熟であるのだけれど、それでも今日の彼のピッチングは、皆が目を見張るのものがあった。

 そんな矢先、五回表を終えたところで、その流れを断つように雨による中断が入ってしまった。
 その間にベンチ裏へ行き、選手たちの使用した重たくなったタオルやアンダーシャツを片付け、新しいタオルを次々と投入する。

 そのついでにちょこっとだけ覗き込んだベンチでは降谷くんが暢気に寝ていて、一也くんにメガホンでぽこっと叩かれていた。

 なんて気の抜ける光景だ。さすがである。


「おーい一也くーん! ここに新しいタオルいっぱい置いとくね」
「ああ、サンキュ⋯⋯ってコラコラ」
「ん?」


 頭を引っ込め、スタンドに戻ろうとしたところを、一也くんに引き止められる。
 今度は逆に、一也くんの顔がベンチ裏にひょこりと覗いた。


「名前、ちゃんと何か羽織っとけ」
「ありがとう。でも寒くないし大丈夫だよ」
「違えよ。それだけだと少し透けるし、身体のライン出すぎなの。アイツらに見せるなんて勿体ねえことすんな。何も持ってきてねえなら俺のウィンドブレーカー着ろ。鞄に入ってっから」


 勿体ない、は言葉の綾だと思うけれど、とにかくこれはアレだ。素直に聞かなければならないタイプのアレだ。そう直感する。

 というわけで、ひとりごそごそと人様の鞄を漁り、ぶかぶかの上着を拝借するに至ったのである。

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