16.空の彼方のクジラみたいに


 皆の心配や不安を良くも悪くも裏切らないのが降谷暁という男である。
 雨はなかなか勢いが弱まらず、試合再開までには大分時間を要してしまった。中断自体が影響したのか、その中断の長さが悪かったのか。どちらかわからないけれど、再開後の降谷くんはまるで別人だった。完全にスイッチが切れてしまっていて、投球が精彩を欠くのみならず、ベンチのサインにすら気が向かない。

 対する向井くんは、さすがの自己コントロールというべきか。このコンディションの中でも崩れぬ投球は敵ながら天晴だ。

 六回表、気持ちを立て直すことができず一点を先制されたところで、降谷くんは降板。雨の中でも準備を続けていた沢村くんへの継投となった。
 イップスは未だ健在で、インコースへは投げられない。それでも外一本で監督の期待に応える見事な投球をしてみせ、無失点で八回までを凌いだ。

 純粋に、痺れた。

 自分の現時点での力をしっかりと受け止め、その上で今できる限りの投球を見せてくれた沢村くんに、皆が痺れた。本当に凄いと思う。

 盤面が大きく動いたのは八回裏。
 たった一球。たった一度の、僅かに乱れた向井くんの球だった。これまでの好投を無に帰すその一球を前園先輩が捉え、一挙に三点を追加し、ついに逆転。

 嬉しい。逆転だ。嬉しい。なのに。


「ぷっ、ふふっ、満塁からの走者一掃なのに、テンパって走り過ぎて当の前園先輩がアウトになるって⋯⋯ふふっ」


 思わず笑ってしまった。
 これは絶対に暫くイジられる案件だ。前園先輩への声援──一部はややガヤともいう──に包まれたスタンドで、わたしもついにはこっそりお腹を抱えた。

 九回表、帝東にとっては最後の攻撃。この回を凌げば青道の勝利が確定する。しかし敵も必死の思いで点をもぎ取ろうとしてくる。
 最終回の抑えで登板した川上先輩も、プレッシャーからかプレーも表情も固い。あとアウト一つなのに、グラウンドの皆の緊張と動揺が伝わってくる。

 その時だった。

 タイムを取りマウンドに駆け寄っていた一也くんが、やおら人差し指を立てた。どうやら上を指差しているようで、わたしもつられて視線を持ち上げる。


「⋯⋯わ、あ、晴れた⋯⋯気づかなかった」


 見上げた先、球場の天辺。切れ切れになった雲の向こうに、青空と。そこから溢れだす陽光がグラウンドに降り注いでいる。


「⋯⋯きれい」


 そこかしこに転がる水粒ひとつひとつが、きらりきらりと光を弾く。雨上がりの澄んだ空気。まるで世界が洗われたような、美しい光景だった。
 それはどこか浮世離れしていて、まるで空の彼方に浮かんでいる心地にさえなる。

 この景色に導かれるように、青道が最後のアウトをもぎ取り勝利を手中に収めた。







 片付けを終え、球場の外へ出ようとしたときだ。はたり。目が合ってしまった。

 誰とって、向井くんと。

 試合終了直後のこのタイミングは、さすがに気まずい。それに向こうはわたしのこと覚えていないだろうし。と、そそくさと会釈だけしようとしたのだけれど、彼からの視線が切れぬことに気づき、わたしはその場に留まった。

 数歩近づいてきた彼は、意外にもあの頃と変わらぬ口調でさらりと告げた。


「あれ? 青道行ってたんだ」
「あれ、覚えててくれてたの」
「初対面であんなぐいぐいこられて覚えてないほうがおかしいだろ⋯⋯」
「ふふ。お疲れさま、ナイスピッチ。⋯⋯たくさん投げたね」
「はぁ? 負けたエースに向かってそれ嫌味?」
「やだなあ、本心だよ。あの雨の中で、あの頃よりずっと繊細で、それなのになんて言うか豪胆で、ほんとにナイスピッチだった」
「⋯⋯まぁ、あの一球以外はね」


 舌打ちが聞こえてきそうだった。いや、実際少し聞こえた。余程悔しいに違いないのだ。たった一球だけれど、彼らにとってはそれがすべてなのだから。
 そして彼も彼とて負けん気が相当強い。自分に対しても、他者に対しても。


「そういうアンタはそれ何? マネやるのはいいけどサイズ合ってなさすぎじゃない?」
「あ⋯⋯これはちょっと借り物。上着持ってくるの忘れちゃって」


 捲っても指先が僅かに見える程度の袖を、ぴらぴらと揺らす。


「⋯⋯ああ、そういうこと、オトコのなわけ」
「え"っ」
「アッハ、こんなカマ掛けに引っかかんの? チョロすぎ」
「〜〜〜〜っ」


 情けないやら恥ずかしいやらで震えそうだ。そんなわたしをぷくくと含みたっぷりに笑っている彼は、若干挑発でもするように、べ、と舌を出した。


「次は負けねーからな」
「うん。また会えるの楽しみにしてるね」
「何、ヨユーじゃん。腹立つ」
「ふふ」


 揺らした肩に、後ろから一也くんの声がかかる。


「名前ー! 油売ってねえで早く来い! 置いてくぞ!」
「はあいすぐ行くー!」
 顔だけ振り返り、手を振って答える。

「へえ。あの人なんだ? 俺の球ぽんぽん打ちやがって」
「ん? なに?」
「⋯⋯なんでもない。早く行けば」
「? うん。じゃあね向井くん」


 聞き取れなかった言葉をその場に残して、わたしたちは球場をあとにした。

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