16.空の彼方のクジラみたいに


 寮で生活をするようになってから通学のための早起きや夜更しは要らなくなったけれど、そのぶん朝も夜もグラウンドやら室内練習場に入り浸るようになった。

 むしろ時間の制約がないぶん、いつまでも誰か彼かの練習サポートをしていたり、試合のビデオを観たりしてしまう。楽しくてキリがなかった。彼らの熱にあてられ、不思議と寝つけない日だってある。

 それゆえ十分な睡眠時間が確保できない日々も儘あり、多分に漏れず授業中には睡魔との戦いに明け暮れる。

 歴戦の同士は沢村くんで、彼の勝率は一割五分五厘、わたしは九割⋯⋯いや、八割、といったところだ。誰か褒めてつかぁさい。

 というのは半分冗談の半分本気であるけれど、そんなこんなのとある日のこと、寮に戻るや否や着信が入った。発信者を見ると、つい五分前まで一緒にティーをしていた一也くんだった。


「はーい。どしたの? やっぱりもう少し打ちたくなった?」
『いや、言い忘れ。つーか名前は早く寝ろ、授業中うとうとしてノートにミミズ書いてたって沢村が言ってたぞ』
「な⋯⋯沢村くん、爆睡常習犯のくせにわたしが睡魔に負けた時に限って起きてるとか⋯⋯しかも告げ口⋯⋯」
『はははっ』
「なんか悔し〜〜明日は絶対寝ない」


 一也くんの笑い声が聞こえる。
 毎日聞く声だ。グラウンドに響く主将としての声。ブルペンで投手に向けられる捕手としての声。時々耳元でこっそり囁く声。それでもやはり電話でわたしだけに向けられる、少しだけ周波数の異なるこの声は特別だ。

 思わず携帯ごと抱きしめたくなるような、そんな心地を与えてくれる。


「それで?」
『ああ、そうそう、次の稲実と鵜久森の試合さ、ナベと一緒に偵察行ってきてくんねえ? 俺らの七森戦と時間被っちまうんだけど、鳴も投げるかもしんねぇし』
「うん。行く」
『お、意外と素直』
「? なんで?」
『いや、てっきり俺らの試合のほう観たいって言うかと思って』
「そりゃあ応援したいですとも。本音は身体がふたつあればいいのになって思ってるよ」


 でも、こうしてわたしの気持ちを汲んだ上でも頼んでくるというのが、信頼のように思えて。嬉しかった。

 役に立ちたいと思う。
 力になりたいと思う。


「ばっちりデータ取ってくるから、一也くんはしっかり勝ってきてね」
『トーゼン』
「ふふ。じゃあ一也くんも早めに休んでね。また明日、おやすみ」
『ああ、おやすみ』


 ぷつりと切れたあとも、耳に残る彼の声。愛おしい。お耳から幸福感が身体中に伝播する。図らずとも、青道に入学する前の、電話で繋っていた日々を思い出す。
 数ヶ月前のことなのに無性に懐かしく思えて、切なくなってしまって。手に残った携帯をきつく握りしめた。







 太陽燦々。気温は二十度。
 絶好の試合日和に、わたしは渡辺先輩と大田スタジアムに足を運んでいた。


「ナベちゃん先輩」
「ん?」
「その⋯⋯元気ですか?」
「ハハ、何それ? 元気だよ」
「それならいいんですけど⋯⋯変なこと聞いてごめんなさい」
「ううん。そんなに元気なく見えた? それとも御幸から何か聞いた?」
「? 一也くんからですか?」
「うん。付き合ってるんでしょ」


 ここでぴたりと動きを止めてしまった。僅かに静止の間を挟んで、こくりと頷く。別に隠しているわけではないのだけれど、取り立てて発表するようなことでもないし、やはり照れくさいというのもある。

 ちなみにいつかの練習後におにぎりを握っているときに恋バナになったことがあり、春乃ちゃんと先輩マネさんには白状している。


「なんか⋯⋯わざわざ言うことでもないし、そんなタイミングもやってこないし、なんとなくずるずるときちゃいました。こうなると逆にカミングアウトが難しいです」
「そうだよね。でも僕以外にも勘付いてる奴は結構いると思うな。やっぱり違うよ、二人の雰囲気が」
「⋯⋯そういうものですか?」
「うん。まぁ口止めしてるわけじゃないならそのうち皆にも伝わるよ」
「⋯⋯そういうものですか?」
「ハハ、うん、そういうものです」


 優しく穏やかな人だ。
 この人が声を荒げたり、昂ぶった感情を顕にするところを、出会ってから一度も目にしたことがない。

 彼は柔らかく笑んでから、膝上のスコアブックに視線を落した。その伏せった目元を見遣って、やはりなんとなく元気がないなと思う。


 ──一也くんと何かありましたか。


 閉ざされてしまった唇を見ると、その一言を口にすることはできなかった。二人の間にあった出来事をわたしが知るのは、あと数時間後のことである。







 大番狂わせと言ってよかった。

 夏の甲子園準優勝校、稲城実業。甲子園の土を踏んだレギュラー四人を残すチームなのだ。高校野球に関わる大多数が稲実が勝利すると思っていたに違いない。

 しかし試合が終わってみれば、そこに勝者として立っていたのは──鵜久森だった。

 九回表、最後のアウトを取られたときの、グラウンドに呆然と佇んでいた兄の背中。鵜久森の勝利にざわめき沸き立つスタンドで、同じく呆然とその姿を見つめる。

 そんなわたしに、横から気遣わしげな声が問うた。


「どうする? 成宮に声かけてから帰る?」
「⋯⋯いえ、今日は」


 だってきっと、泣いてる。

 兄の格好いい姿も、情けない姿も、幾度となく目にしてきた。悔し涙を流す兄の横で、無言で空を見上げながらともに帰路に着いた日も数え切れない。兄妹で今更取り繕う体裁もない。

 それでもきっと、今日の敗戦は兄にとっては見せたくないものであると思う。
 仲間とか。信頼とか。心とか。技術的なものではない、しかし違えてはならぬものを見失ってしまった試合だったから。


「⋯⋯そっか。じゃあ帰ろう」
「はい」


 複雑なものである。
 優勝候補が敗れたことを吉とすべきか。しかし、妹としては兄にはやはり勝ってほしかったというのが本音だし。そして、打倒稲実に燃えている青道の皆にこの結果をどう伝えようか。悶々と悩みながら青道へと戻った。

 食堂でビデオを観終え、「名前、鳴のヤツ何あれ」「自滅です」「だよな」などという会話をし、だいぶ人も捌けた頃に──それは起こった。

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