16.空の彼方のクジラみたいに


「お前⋯⋯マジでそんなこと言うたんか!! 考えられへんぞ!!」


 前園先輩の大声が食堂中に響く。
 一也くんの胸倉に掴みかかり糾弾する前園先輩を、わたしは目を丸くして見上げていた。

 どうやら渡辺先輩は、野球に対する周囲との意識の差について悩んでいたようで、先日一也くんに相談をしていたらしいのだ。そしてその時の一也くんの対応に、前園先輩がお怒りというわけである。

 その体格と顔貌の相乗効果で、非常に迫力がある。前園先輩の為人ひととなりを知っているからいいものの、そうでなければついうっかり警察を呼んでしまいたくなるレベルの迫力だ。

 さすがにこれ以上の手は出さない──つまり殴るということだけれど──と思う。しかしこの緊迫感。一也くんの言動次第では咄嗟に手が出てしまっても何らおかしくはないし、部員同士のこんな諍いは見ていて素直に辛かった。


「ゾノ、やめとけ。名前ちゃんだっているんだぞ」
「知らんわい! 俺は御幸に言うとるんや!」
「⋯⋯ったく」


 もっちー先輩の身体がすっとわたしの前に入り込む。視界を遮るためか、はたまたとばっちりを防ぐためか。何れにせよ、何かからわたしを守ろうとしてくれたことだけは確かだ。

 もっちー先輩の背中を見ながら、考える。

 両者の言い分は、理解はできる。
 一也くんの厳しい言葉も。前園先輩の仲間への想いに溢れた、しかしそのぶん一也くんを責め立てる言葉も。きっとどちらも正しく、そしてどちらも間違いだ。

 まだ、誰も渡辺先輩の本心に触れていないのだから。


「俺は絶対認めへん!! お前をキャプテンとして認めへんからな」


 そう捨て置き食堂を出ていく前園先輩と、何とも言えぬ表情でそっぽを向く一也くん。

 稲実を倒し勢いに乗っていること間違いなしの鵜久森との試合前日だというのに、この最悪の雰囲気を一体どうしろというのか。こんなとき、一也くんにどんな言葉をどんなふうにかけたらいいのか。

 自分の無力さに辟易する。


「⋯⋯名前ちゃん、大丈夫か?」
「あ、わたしは全然⋯⋯」
「⋯⋯自分じゃ気づいてねえかもしんねえけど、すっげー怯えた顔してんぞ。今日はもう帰んな、部屋まで送っから。御幸が」
「「え?」」


 わたしと一也くん。ふたつの声がぴたりと重なる。二人揃って間の抜けた顔でもっちー先輩を見る。

 この反応を見るに、一也くん、送る気ないみたいですけど⋯⋯みたいな視線をもっちー先輩に送ると、彼は酷く凄んだ面持ちで一也くんを睨めつけた。


「送るに決まってるよな?」
「⋯⋯はい」


 その圧に気圧されたように、一也くんが頷く。そのまま半ば追い出されるように、わたしたちは食堂を出た。


 群青の夜空に、ところどころ灰白色で刷いたような雲が浮かぶ。その一片から十六夜月が覗いていた。

 今しがたの出来事が嘘のような、静かな秋の夜空だ。


「──⋯⋯」


 何か話したほうがいい、よね。
 そう思い口を開くのだけれど、どれを採っても違う気がして、阿呆みたいに口を開いたり閉じたりを繰り返してしまう。

 一也くんも同じく逡巡している様子だったけれど、結局、彼が言葉を口にするほうが早かった。


「⋯⋯怖かったろ、ごめんな」
「そ、んな、謝ることじゃないよ⋯⋯」


 こんなとき、気の利いた言葉のひとつでも言えたらよかったのに。
 ぎゅっと拳を握ると、それを彼の手がやわりと包み、優しく解した。

 ゆっくりと五指が絡まる。

 手を繋いで歩くのは、はじめてだ。
 おおきくて力強いその手は、毎日バッドを振るその手は、驚くほどに雄々しい。穏やかな高鳴りと、面映さと、安堵感と。そしてそこに、彼の一抹の迷いが混ざる。


「⋯⋯キャプテンて、何だろうな」
「一也くん⋯⋯」


 その手をゆっくりと握り返す。

 わたしの寮はなんと言っても近い。それはもう目と鼻の先だ。
 せっかくもっちー先輩が気を利かせてくれたのに、互いに無言の時間が長かったせいで寮が目前となってしまった。

 玄関前で少し話そっか、と言いかけた矢先、彼はさも自分の寮かのような振る舞いで外扉を通過した。あまりにも自然なその動作に、わたしもつい普段と同じく暗証キーを入力する。呆気なく開いた二枚目の扉を、やはり彼は何食わぬ顔でくぐり抜けた。背後ではオートロックが閉まる音。


「名前の部屋どこ?」
「三階の角っこだけど⋯⋯」


 すたすた。迷いなく進む彼に手を引かれる形となり、わたしは首を傾げた。

 これは普通にわたしの部屋に来る感じなのだろうか。それとも“部屋まで送る”というのが、寮の前ではなく、本当に部屋の前までという意味なのか。

 いや、絶対前者だ。
 ここまで何食わぬ顔で来たのだ。きっと部屋の中にも何食わぬ顔で入る。一也くんだし。

 今朝方出たときの部屋の中を慌てて思い出す。散らかってはいなかったか。洗濯物は全部しまっていただろうか。見られたら困るもの──一也くんの写真とか──は出ていなかったか。

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