16.空の彼方のクジラみたいに


 そんなことを思い返しているうちに、気づけば部屋の前まで到達していた。やはりそこで手が離れる気配はない。つまり、そういうことである。

 よってわたしは、そーっと部屋の扉を開けた。隙間から恐る恐る部屋の中を覗き込む。


「た、ただいま〜〜⋯⋯」
「ははっ、自分の部屋なのに泥棒みてぇ」


 急に来る一也くんが悪いもん。

 そう言いかけて、やめた。
 日頃の整理整頓を怠っていた自分に非がある。ありすぎる。

 幸い我が部屋は他人を招き入れられる最低限の体裁は保たれていた。ほっと胸を撫で下ろす。

 一也くんはというと、部屋に入るや否や──わたしをきつく抱きしめた。

 その反動でふらつき、閉まったばかりの扉に背中が軽くあたる。彼の胸元にうずめられた鼻頭が苦しい。腕の力はまるで緩まなさそうなので、顔をもごもごと動かしなんとか向きだけは変えることができた。これで息はできる。


「っは〜〜〜〜〜」


 頭の上から、超特大の溜め息が降ってきた。あまりの大きさと長さに、彼の何かしらの成分までが落ちてしまったのではないかと心配になり、腕の中で身を捩って彼の顔を確認する。


「よかった、ちゃんと一也くんだ」
「は?」 


 わたしを間近で見下ろした彼がきょとんと目を丸くする。幾ばくか幼くなったその表情が可愛くて、思わず笑ってしまった。

 そんなわたしの額に、ひとつ触れるだけのキスを落として、彼はもう一度わたしをきつく抱きしめた。


「⋯⋯落ち着く。もうちょいこうさせて」
「⋯⋯それだけでいいの?」


 かといって決して何か有用なことを言えるわけではないのだけれど、それでも力になりたいのだ。

 しかし肯定の返事のように、彼はわたしの後頭部を撫でた。少し迷ってから目蓋を閉じ、彼の胸に頭を預ける。とくり。生きている音が、直接聴こえた。







 誰かが電話をしながら廊下を通った。その声に、わたしたちは揃ってぴくりと身体を揺らした。

 一体どのくらいこうしていたのか、感覚はとうに麻痺していた。廊下の声がなければ、このまま互いの体温に融けてしまっていたかもしれない。

 深く息を吸ってから名残惜しそうに身体を離し、彼は呟く。


「⋯⋯この部屋、名前の匂いでいっぱいだな」
「えっ、そう? やだ何だろう。自分じゃわかんない」
「いや、いい匂いだよ。超唆る」
「⋯⋯へ?」
「もうこのまま押し倒しちまいたいけど、さすがに明日試合だしな⋯⋯まぁこの部屋にも案外すんなり入れるってわかったし、次はわかんねえけど」
「⋯⋯っ」
「ははっ真っ赤」


 自分でも頬が熱いのがわかる。
 耳も赤くなっていたのか、どこか満足そうに耳介をなぞった指先で、彼はわたしの顎を持ち上げた。

 ──瞬く間に唇が重なる。

 程なくしてから絡みだした舌に、程よい圧迫感と微かな痛みを覚える。有り体に言えば吸われていた。
 絶妙な力加減でなされるそれに、鳩尾のあたりが酷く切なく疼いた。その疼きを逃したくて、彼の背に回した手に力を込める。

 散々口内を味わい尽くしてから、彼は顔を離した。濡れた唇から、耐え難いほど色っぽい吐息が漏れる。
 その様にこくりと喉を鳴らしたわたしに、彼は僅かに目尻を下げて笑った。


「ありがとな」
「⋯⋯わたし何にもしてないよ」
「存在こそが力ってやつだよ。あとそんな目で見んな、続きはまた今度、な」


 諭すようにわたしの頭を撫でてから、唇をひと食み。それから来たとき同様何食わぬ顔で、彼は「おやすみ」と部屋を出た。

 遠ざかっていく足音が聞こえなくなってから、ふらふらとベッドに倒れこみ、枕に顔を押し付ける。


「心臓に悪すぎる⋯⋯ていうかそんな目ってどんな目なの」


 恥ずかしい。そんなに物欲しそうな顔をしていたのだろうか。非常に恥ずかしい。
 恥ずかしさに悶絶しすぎたわたしは、暫くこの体勢から動くことができなかった。

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