16.空の彼方のクジラみたいに


 鵜久森戦に白星を飾った、その翌々日。昼休みのことだった。


「あ」
「お」


 階段の踊り場で鉢合わせた人物に、はたり。互いが足を止めた。


「奇遇だね。一也くんも購買行くの?」
「そ。お前ひとり? 一緒に行くか?」
「やった!」


 軽やかな足取りで隣に並ぶ名前を横目に見下ろす。


「何、嬉しそーだな」
「ふふ、うん。学校で一也くんと会えることってあんまりないから。制服かっこいいし」
「⋯⋯そーいや春にもそんなこと言ってたな」
「あ、照れてる」
「照れてない」
「あはは、そんなこと言って」
「照れてねぇって」


 可笑しそうに肩を揺らす名前を見ていると、胸の奥の重たい何かがふっと軽くなる気がした。

 ──重たい何か。
 いや、“何か”などではない。わかっている。ナベやゾノとの一件で嫌でも考えさせられた。野球とは。チームとは。主将とは。自分とは。

 重石のように胸中を占めていたそれらが、名前といると軽くなる。

 不思議だと思う。
 どんなに考えても答えも解決策も出ず、煩わしさを感じたり、果ては自信までが揺らぐことさえあったのに。名前はその身ひとつだけで、こうも容易く心を解してみせる。

 不思議だと、思う。


「⋯⋯一也くん? ちょ、っと、学校では恥ずかしいな⋯⋯」
「あ⋯⋯、つい」


 本当に“つい”だった。
 完全に無意識だった。

 指摘されて見下ろした自分の手は、名前の手をしっかりと握っていた。堂々と繋いだって別に構いやしないのだが、やはり互いに恥ずかしさが勝り、そっと手を離す。

 頬を薄く染めながら俺の様子をじっと見ていた名前は、「ね、一也くん」と口を開く。


「お昼、一緒に食べよ」







 軽快な足音が階段を駆ける。
 揺れるスカートの裾は昇りきったところで止まり、振り返る動作から一瞬遅れて、再度くるりと揺れる。


「見て見て一也くん! 屋上開いてる!」
「マジ? てか使っていーのかよ」
「いいんだよきっと、ダメって書いてないし、言われた記憶もないし」
「はは、俺もねぇわ」
「でしょ」


 躊躇なく扉を開いた名前が、その先へとまた駆けていく。数歩あとを、俺はゆったりとした歩幅で追う。

 青空だ。
 視界いっぱいに青空が広がる。

 フェンスの手前で両手を広げ、空を見上げる名前の背中を。塔屋に背を預け、目を細めて見つめる。


「きもちいー」


 誰もいない屋上を、名前の声がのびのびと渡っていく。

 名前は、空が似合う。

 風にたなびくその髪も、太陽に映えるその白い肌も、眩しい笑顔も。

 いつか、この空のどこかに飛んでいってしまいそうだ。


「⋯⋯名前、いなくなんなよ」
「ん? なあに?」
「⋯⋯いや、早く食おうぜ」
「うん」


 手の届く場所まで戻ってきた名前に、ほっと息を衝く。
 どうかしている。ここにいるじゃないか。目の前でその瞳に俺を映し、穏やかに笑んでいるじゃないか。

 振り払うようにかぶりを振る。
 名前の手を引き、あたたかな陽だまりに二人で腰を下ろした。







 満腹になった頃。俺は名前の大腿に頭を乗せ、仰向けに転がっていた。空を背景に、俺を覗き込む名前がそこにいる。

 そのやわらかな手で俺の前髪を掻き上げるように梳きながら、名前はふわりと笑みを落とした。


「一也くん。何かありましたか」
「⋯⋯なんで分かんだよ」
「やだなあ、わかるよ。一也くんのことばっかり見てるから」


 撫でるように梳かれる髪が酷く心地よい。自然と瞼を閉じていた。このまま眠りに落ちれたらどんなに幸せだろうかと思いながら、ちいさく唇を開く。


「⋯⋯哲さんが」
「うん」
「や⋯⋯昨日少し話したんだけど、イキナリ目隠し将棋挑んできてさ」
「あはっ」


 昨日、前主将である哲さんに今回の件を話した。背中を押してもらった。哲さんとのことを話そうかと思ったが、どことなく格好がつかない気がして、話を逸らしてしまった。

 今更名前の前で張る見栄もないというのに、まったく。

 名前もそのことに気付いていそうなものだが、そんな様子はおくびにも出さず、「結城先輩できるの? 目隠し将棋」と可笑しそうに笑っている。

 ──いま、この瞬間だけは。

 燻っているもの全部を忘れて。純粋に自由にただ野球と向き合い、そしてそんな俺を名前だけが見ていてくれる時間だ。

 スカート越しにも分かるそのもちりとした大腿に、俺は昼休みが終わるギリギリまで頭を預けた。





◇空の彼方のクジラみたいに◆

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