鵜久森戦に白星を飾った、その翌々日。昼休みのことだった。
「あ」
「お」
階段の踊り場で鉢合わせた人物に、はたり。互いが足を止めた。
「奇遇だね。一也くんも購買行くの?」
「そ。お前ひとり? 一緒に行くか?」
「やった!」
軽やかな足取りで隣に並ぶ名前を横目に見下ろす。
「何、嬉しそーだな」
「ふふ、うん。学校で一也くんと会えることってあんまりないから。制服かっこいいし」
「⋯⋯そーいや春にもそんなこと言ってたな」
「あ、照れてる」
「照れてない」
「あはは、そんなこと言って」
「照れてねぇって」
可笑しそうに肩を揺らす名前を見ていると、胸の奥の重たい何かがふっと軽くなる気がした。
──重たい何か。
いや、“何か”などではない。わかっている。ナベやゾノとの一件で嫌でも考えさせられた。野球とは。チームとは。主将とは。自分とは。
重石のように胸中を占めていたそれらが、名前といると軽くなる。
不思議だと思う。
どんなに考えても答えも解決策も出ず、煩わしさを感じたり、果ては自信までが揺らぐことさえあったのに。名前はその身ひとつだけで、こうも容易く心を解してみせる。
不思議だと、思う。
「⋯⋯一也くん? ちょ、っと、学校では恥ずかしいな⋯⋯」
「あ⋯⋯、つい」
本当に“つい”だった。
完全に無意識だった。
指摘されて見下ろした自分の手は、名前の手をしっかりと握っていた。堂々と繋いだって別に構いやしないのだが、やはり互いに恥ずかしさが勝り、そっと手を離す。
頬を薄く染めながら俺の様子をじっと見ていた名前は、「ね、一也くん」と口を開く。
「お昼、一緒に食べよ」
軽快な足音が階段を駆ける。
揺れるスカートの裾は昇りきったところで止まり、振り返る動作から一瞬遅れて、再度くるりと揺れる。
「見て見て一也くん! 屋上開いてる!」
「マジ? てか使っていーのかよ」
「いいんだよきっと、ダメって書いてないし、言われた記憶もないし」
「はは、俺もねぇわ」
「でしょ」
躊躇なく扉を開いた名前が、その先へとまた駆けていく。数歩あとを、俺はゆったりとした歩幅で追う。
青空だ。
視界いっぱいに青空が広がる。
フェンスの手前で両手を広げ、空を見上げる名前の背中を。塔屋に背を預け、目を細めて見つめる。
「きもちいー」
誰もいない屋上を、名前の声がのびのびと渡っていく。
名前は、空が似合う。
風にたなびくその髪も、太陽に映えるその白い肌も、眩しい笑顔も。
いつか、この空のどこかに飛んでいってしまいそうだ。
「⋯⋯名前、いなくなんなよ」
「ん? なあに?」
「⋯⋯いや、早く食おうぜ」
「うん」
手の届く場所まで戻ってきた名前に、ほっと息を衝く。
どうかしている。ここにいるじゃないか。目の前でその瞳に俺を映し、穏やかに笑んでいるじゃないか。
振り払うように
名前の手を引き、あたたかな陽だまりに二人で腰を下ろした。
満腹になった頃。俺は名前の大腿に頭を乗せ、仰向けに転がっていた。空を背景に、俺を覗き込む名前がそこにいる。
そのやわらかな手で俺の前髪を掻き上げるように梳きながら、名前はふわりと笑みを落とした。
「一也くん。何かありましたか」
「⋯⋯なんで分かんだよ」
「やだなあ、わかるよ。一也くんのことばっかり見てるから」
撫でるように梳かれる髪が酷く心地よい。自然と瞼を閉じていた。このまま眠りに落ちれたらどんなに幸せだろうかと思いながら、ちいさく唇を開く。
「⋯⋯哲さんが」
「うん」
「や⋯⋯昨日少し話したんだけど、イキナリ目隠し将棋挑んできてさ」
「あはっ」
昨日、前主将である哲さんに今回の件を話した。背中を押してもらった。哲さんとのことを話そうかと思ったが、どことなく格好がつかない気がして、話を逸らしてしまった。
今更名前の前で張る見栄もないというのに、まったく。
名前もそのことに気付いていそうなものだが、そんな様子はおくびにも出さず、「結城先輩できるの? 目隠し将棋」と可笑しそうに笑っている。
──いま、この瞬間だけは。
燻っているもの全部を忘れて。純粋に自由にただ野球と向き合い、そしてそんな俺を名前だけが見ていてくれる時間だ。
スカート越しにも分かるそのもちりとした大腿に、俺は昼休みが終わるギリギリまで頭を預けた。
◇空の彼方のクジラみたいに◆