17.濁った心と透明な心臓と


 夜も更けてきた二十三時。
 もうそろそろ結構眠たい。ぐぐっとおおきく伸びをして、椅子をくるりと回し振り返る。


「あの⋯⋯ところで一也くん」
「ん?」
「めちゃくちゃ今更なんだけど、なんでわたしの部屋で寛いでるの?」
「ほら、ナベたちのこととかさ、なんとなく一段落ついた感あるだろ。だからちょっと癒やされたくて」
「えっ?」


 思わず素っ頓狂な声を出してしまった。それならそうと最初に言ってほしかった。

 一也くんときたら、そんな素振りも見せずに「急用。開けて」だなんて突然訪ねてきて──おかげで何事かと慌ててオートロックを開けに走った──、挨拶もそこそこに部屋に入り、ここ最近わたしが集めている高校野球雑誌を読み始めたのだ。

 急用は? と聞いても、やっぱ何でもなかった、とはぐらかされる始末。

 わたしもよくわからぬまま、まぁただ何となく誰かの隣に居たい時もあるよね、なんて勝手に納得して、彼をほっぽって明日が期限の課題を黙々とやってしまったではないか。おかげで課題は終わったけれど。

 そして彼は彼で、最初は床に腰を下ろしていたはずなのに、今は我が物顔でベッドに横になり雑誌を捲っているのだ。

 寛ぎに来たとしか思えなかった。


「それなら来たときに言ってよー、わかんなくて一生懸命お勉強しちゃったじゃん⋯⋯ごめんね」
「謝ることじゃねぇよ、俺が押しかけてんだし。課題終わったのか?」
「うん」
「じゃ、こっち」


 “おいで”と。彼が手招く。

 どこへ行けばいいのかと彼の周りを見回す。シングルベッドは彼の大きな身体でほとんど占拠されている。かといって床に座るのもなんか違うし。

 迷った挙句、彼の腰の横あたりにちょぼりと腰を下ろした。


「? どこ座ってんの」
「?? ここしかわたしのお尻が嵌まる隙間な、きゃ、」
「何言ってんだよ、こっちだろ」


 ひょいと両脇を抱えられた次の瞬間には、彼の身体に乗っかるかたちですっぽりと抱きしめられていた。


「なーに。まだ照れてんの? お前も慣れないね」
「⋯⋯一也くんは余裕ですね」


 抱きしめあったり。キスをしたり。一也くんに触れるという行為は、いつだって恥ずかしいし照れくさいしドキドキするし、なのにぽかぽかするし安心するしずっとこのままでいたいと思うし、とにかく感情が大渋滞なのだ。慣れるなんてとんでもない。


「へえ。余裕に見えてんだ」
「違うの?」
「違ぇよ、バカ」
「わ、怒った」


 口調とは裏腹に、髪を梳いてくれる手はひどく優しい。わたしの頭頂部で甘えるようにふにふにと動く彼の頬を、泣きたくなるほど愛おしく思った。


「新チームになると、いろんなことが起こるね。お兄ちゃんも大変だったみたいだよ」
「鳴? ⋯⋯ああ、この間の試合も散々だったしな。今回はもう復活してんの?」
「うん。この間元気過ぎてうるさい電話きた。前みたく引き篭もったら会いに行こうかとも思ってたんだけど」
「そっか。どこのチームも足掻いてんのかね」


 過ぎてみれば案外呆気なかった気もするし、皆に必要なステップだった気もするし、俺も少し成長した気もするし⋯⋯かといってもう御免だけど。

 そう言って、彼は微妙な声で此度のことを振り返った。

 渡辺先輩を発端とした部内のゴタゴタは、それぞれがそれぞれの考えをぶつけ合い拗れまくったわけだけれど、結果的には各々の落としどころにふんわりと着地した。

 渡辺先輩の、吹っ切れたように明るい表情が嬉しかった。「苗字、データ見直そう」と掛けてくれる声に、元気が戻った。


「今となってはみんな不器用過ぎ⋯⋯って思うし、前園先輩は今でも空回り過ぎ⋯⋯ってもはや微笑ましい気持ちでいられるけど、本当に、その、お疲れさまでした、キャプテン」
「ははっ、いーよ、そんな歯切れ悪く気遣わなくて」
「ふふ」


 肩の荷が下りたのだろう。
 ここ最近変に張っていた彼の空気が和らいでいる。

 癒やし、って、言ってたっけ。
 一也くんは、最近なんだかよく、癒やしという言葉を使う気がする。わたしがそれに、なれているのだろうか。

 少しの逡巡ののち、彼の両脇に手をついて上体を少しだけ持ち上げ、彼を見下ろす。


「一也くん。キスを、してもいいですか」
「⋯⋯やめてくんない? そんな可愛い強請り方」


 かたちの良い彼の唇を注視する。
 こんなふうに改まって自分からキスをするというのははじめてだ。ど、どうしたらいいんだ。


「ちょ⋯⋯目瞑ってよ」
「なんで。見てたいじゃん」
「えー? その気持ち全然わからな⋯⋯くもない。悔しい」
「ぶっ」


 吹き出された。人が真剣に考えているというのに、けらけらと笑っている。むうと口を結ぶ。

 そしてさらに悔しきかな。

 笑っている一也くんは、大好きだ。


「でもだめ、瞑って、恥ずかしいもん」
「はいはい、今回だけな」


 唇で笑みを浮かべたまま、彼の瞼がゆっくり閉じる。鼻頭をくっつけ、少しずらしてから唇と唇を軽く合わせる。何度か食んでみてから、舌先だけで表面をちろと舐める。舌を入れてみたいけれど、いつも彼がしてくれるキスを受け止めていただけだから、自分ではどうしたらいいかわからないというのが正直なところだ。

 故に躊躇しながらそんなキスを繰り返していると、彼の指先に頬を擽られた。


「⋯⋯なあ、そろそろくれよ、大人のキス。焦らすなんて悪ぃことどこで覚えてくんの」
「っ違、その、わかんなくて」
「いっつもしてんのに?」


 その台詞に含まれた意地悪さに気づき、思わず脳内で天を仰ぐ。


「⋯⋯意地悪」
「はっはっは、残念でした」


 ほら、舌入れて。

 そう言って、彼はわざとらしく唇に隙間を作る。⋯⋯ええい、なるようになれ! と腹を括り、合わせた唇からゆっくりと舌を入れてみる。

 唇の内側。歯列。その先で感じた彼の舌の感触に、思わず身震いする。差し出してくれた舌先を軽く吸うと、いつの間にか後頭部に回されていた手に力が入り、ぐぐっと押し付けられる。同時に絡めとられ、あっという間に主導権が奪われた。


「んん⋯⋯っ」
「⋯⋯頑張ったじゃん」

 合間に囁かれる。

「⋯⋯でも、足りねぇ」


 上がっていく息。耳にかけていた髪が、はらりと彼の頬に落ちる。それを改めて耳にかけてくれてから、彼は身軽にくるっと反転した。

 ⋯⋯なんて早業だ。

 ほんの一間で彼に組み敷かれている。そして息つく間もなくキスが降ってくる。まるで“こうすんだろ”と思い出させるような、教えようとするような。“さっきのじゃお前も足りねぇだろ?”と念押しするような。

 そのうち、服の内に手が入り込む。ブラジャーの上からやわく揉まれ、その一枚の隔たりをもどかしく思ってしまった。

 思ってしまった自分に、驚いた。

 甘えるように首に手を回す。キスをしたまま、彼が笑みを作るのがわかった。

Contents Top