路端に停まっていたタクシーが、ふたりを乗せ名前のマンションへと向かう。
街灯。対向車のヘッドライト。店の照明。疎らに照らし出される御幸の端正な横顔に、ぽつりと話しかける。
「⋯⋯ねぇ、一也くん」
「ん?」
「一也くんも、今お兄ちゃんが行ったみたいな⋯⋯そういう機会あるの?」
数秒、走行音だけが車内に満ちる。御幸は探るように名前の目を見つめ、それからどこか困ったような、それでいて少し挑発的にも見える笑みを浮かべ「⋯⋯気になる?」と問うた。
少し迷って、頷く。
「うん。もしかしたら、知る必要はないのかもしれないけど」
知らない方が、いいのかもしれない。
世界には知らない方がいいこともたくさんある。必要以上に知ろうとしない勇気も、知らないままでいようとする勇気もまた、時には必要なのだろう。
しかしそれは、この場合には当てはまるのだろうか。
天秤にかける。知らないままでいる自分と。例えその事実が自分の望むものとは違っていたとしても、知ったあとの世界を生きていく自分と。
いずれも相応にリスクがある。
今の名前の器量は、何をどこまで耐え得るのだろう。
そして御幸は、どちらの名前を望むのだろう。知ろうとする名前と、知らぬままでいようとする名前と。知った名前と、知らないままでいる名前と。どの名前を、好ましく思うのだろう。
「⋯⋯でもやっぱり気になる。というか不安になっちゃう⋯⋯」
鳴は有無を言わさず連れて行かれた。「仕事の付き合いで」とか「断りきれなくて」とか「断ったせいで明日から気不味くなりたくないから」とか、そんな状況はきっとどの職種でも起こり得ることなのだとは思う。けれど。
一也くんは、──一也くんは?
彼も機会があれば、“そういうお店”に足を踏み入れることがあるのだろうか。夜の街の片隅で。名前の知らぬ世界に。
自分で無駄に膨らませた想像に不安を煽られる。眉を下げ上目で御幸を見ると、御幸はまるで子どもでもあやすかのような顔をした。
「なんつー顔してんだよ。大丈夫、そんなことにかける時間も興味もナシ。人付き合いとか気にする質でもねぇし、もしさっきみたいな場面があったとしてもきっぱりさっぱり断って終了。名前が心配するようなことは、絶対起こらねぇから」
一寸の迷いも感じさせないその返答に、名前は恥じ入って目線を伏せる。
「⋯⋯ごめん、わたし、こんなこと聞いて子供っぽかったね」
「? なんでそうなんの?」
きょとりと目を開いた御幸は、心底理解できないといった表情をしている。なんだか余計に恥ずかしくなり、心中でそっと天を仰ぐ。
御幸が向けてくれる眼差しに浸かっていると、精神的成熟を繕う必要はないのかもしれないと思えてくる。繕うほうが格好悪いのかもしれない。背伸びせず。等身大で。歳を重ねたとて、これまで通り在るがままで生きていて大丈夫なのだと思えてくる。
「つーかさ、そんな時間あったら名前に会いにくるっての。今日みてぇに」
「うっ」
ぼすん! と頭のてっぺんに御幸の手。良過ぎる勢いに押され真下を向いた視界が、握り締めた両手を映していた。
「ここです! どーぞ!」
部屋の扉を開け御幸を通す。初めての場所だからか、他人行儀に「お邪魔します」と口にした御幸は、名前に一歩遅れて靴を脱ぎ、それを丁寧に揃えた。
その背へ、ぎゅうっと抱き着く。
「うお」
「一也くん、来てくれてありがとう。会いたかった⋯⋯」
──会いたかった。
どれだけ電話で声を聞こうとも、写真を見ようとも、御幸の活躍を追い掛けようとも、決して埋まらない寂寞。この体温に触れることでしか満たされぬ隙間が、いつも、いつも、名前を蝕んでいた。
よくここまで我慢できたと思う。
御幸が現れた店でも、タクシーの中でも、御幸に抱き着きたくて仕方がなかった。本当によくここまで耐えた。素晴らしい理性だ。
大きな体幹をめいっぱい抱き締め、額を擦り寄せる。「また身体おっきくなったねぇ」と零すと、御幸は苦笑しながら「ちょい力緩めろよ、俺もそっち向きてぇんだけど」と頭だけで振り返った。
その顔を見上げ、腕の力を緩める。身体を回して名前に向き合った御幸の首の後ろに手を回し、く、と力を入れる。自分の方に御幸の顔を引き寄せたかった。どうしようもなくキスがしたい。
しかし、彼のしなやかで逞しい筋肉は少しの力では動いてくれなかった。ゆえに、思いのほか強い力を入れることになる。
近付く顔と顔。このままでは埋まらぬ最後の距離を、爪先だけに体重を預け、踵を浮かせて埋める。
性急に、しかしそっと──唇を重ねる。
やわらかい、御幸の感触だ。
馴染みがあるのに懐かしく感じてしまう。ずっと焦がれていた。会えぬ間、この感触を幾度となく思い出しては、触れ合えぬ距離を憂いていた。寂しさにしょげそうになる心を窘め、次に会える日を指折り数えて待っていた。
だから本当はいくらでもこうしていたい。気の済むまで御幸に抱きついて、キスをして、心を満たしたい。
けれど帰宅早々玄関でこんなことをしてしまったものだから、そういうわけにもいかない。
だから、ゆっくり三秒、数えたら。
離れるつもりだった。ぱっと身体を離して、「急にごめんね、我慢できなかったの」とおどけてから、部屋を案内し、きっと今後もあるであろうお泊りの機会に備えて備品を整理し、身辺を整えて、そして、ようやくゆっくりと時間を過ごす。
そうする、つもりだったのに。
離れようと引きかけた身体が、制される。後ろ髪に差し込まれた手に軽く頭部を押さえられ、合わせた唇が逃れられない。それどころか、唇を容易く掬い取られ、入り込んできた舌に些か乱暴に口内をなぞられる。
まるで、主導権は渡さねぇよ、とでも言うように。
「ん⋯⋯っかず、」
「先に手出したのお前だからな」
「⋯⋯っんぅ」
ようやく生じた合間で発した声は、御幸の声に搔き消され、或いはすぐに唇で物理的に蓋をされる。思わず開いた瞼の隙間から見上げた御幸の双眸。そこに宿っていた艶めかしく危なげな眼光を目にした瞬間、名前は「あ、」と瞠目した。
これは、なんか、ちょっとやばいかも。