春に攫わる


 何か、気配が揺らいだ気がして。
 名前はぼんやりと瞼を持ち上げた。どうやら眠りから覚めたらしい。そのことを自覚すると同時に、感覚を確かめる。自分は今どんな体勢でどちらを向いているのか。今はだいたい何時頃なのか。染み付いた感覚的なルーチンの最中、普段とは異なる存在を認識し、もう少しだけ目を開く。

 目の前には、御幸の顔。

 同じくまだ眠気の残る眼差しで、ぼんやりと名前を見ていた。ちょうど浅い眠りの時にどちらかが身動ぎしたからなのか、どうやら同じタイミングで目覚めたようだった。 
 

「⋯⋯ふふ」
「はよ」
「おはよぉ」


 何とも覇気のない声である。
 
 部屋全体は薄ぼんやりと明るく、しっかりと閉じている遮光カーテンの向こうでは夜が明けたのだとわかる。

 御幸の手が伸びてきて、指先で名前の目尻を撫でた。寝起きであたたかな指先だ。誘われるように瞼を閉ざす。まだまだ居座っている眠気に容易に引っ張られてしまう。


「もっと寝てていーんだぜ。もう朝練もねぇんだし」
「⋯⋯やだ、一也くんがいない時に寝るもん」
 

 開かない瞼を擦り付けるように、御幸の胸にごろごろと甘える。
 
 御幸は今日も予定があるから、ここにはもう長くは居られない。いつかずっと一緒にいられる未来が来たら、そのときは共に二度寝ができたらいいな、なんて妄想を抱く。


「あれ⋯⋯そういえばお兄ちゃん、帰ってこなかったね」
「ああ、そういやそうだな」
「玄関に一也くんの靴あるの見たら、きっと大声出したもんね」
「な。夜中だろうとお構い無しに」
「これが世に言う朝帰り⋯⋯朝帰りが普通にある世界⋯⋯なんかわたし歳取った気分⋯⋯」
「まだ俺ら酒も飲めねぇくせに何言ってんだよ⋯⋯けど、お前はぜってーすんなよ、朝帰りなんて」
「うん、しない。それに昨日一也くんとお兄ちゃんが来てくれたから、大丈夫だよ」
 

 思い出すと笑ってしまう。人生初の飲み会に、兄と彼氏が牽制に来るなんて。もはや笑い話ではあるのだが、それを嬉しく思っている自分がいることも確かなのだ。

 本当に、幸せ者だと思う。
 
 暫く御幸に甘えながら眠気を覚ましてから、軽く身支度を整えてキッチンに誘う。
 

「朝ご飯食べよ、お腹空いちゃった。ちょうど買い出し行ったあとだし色々できるよ」
「え?」
「⋯⋯え?」
「なに、もしかして普段の飯、お前がやってんの?!」
「うわ、すっごい驚くじゃん」

 
 そりゃそうだろ、と今までの何某かを思い出している素振りを見せる御幸の身体を小突く。

 
「ちょっとずつ上達してきたんだよ、お兄ちゃんも結構褒めてくれるし」
「へぇ、すげぇじゃん」
「でも食事って、本当に難しいね。すっごく大切だし幸せなことなのに⋯⋯勉強しがいがあって最近燃えてるの」
「名前のそーいうとこいいよな」


 野球も、そして勉強もだ。
 好きという気持ちと目的意識が生み出す集中力、探究心、そしてそれを維持する力。名前が持ち合わせているこの性質を、御幸はとても好ましく思う。


「俺もなんかやるわ。オムレツとか作るか? 目玉焼き?」
「わー! 食べたい食べたい! オムレツ!」


 なんて、いつかの新婚ごっこ──いつかの年末に御幸の実家でした──さながらきゃっきゃいちゃこらしていた時だ。
 
 玄関の鍵が、酷く重たそうにガチャリと回った。解錠音で帰宅者のコンディションがわかるなんて。余程疲れているのだろう。
 
 料理の手を止め、玄関へ続く廊下の方へ視線を動かす。

 
「お兄ちゃん、おかえ──」


 陽気に出迎えるつもりだった。それなのに、思わず言葉に詰まってしまった。
 
 視線の先には、襤褸切れのようになってしまった鳴の姿。酷い顔だ。瞳にいつもの力はなく、憔悴しきっている。

 どう声をかけたものか。逡巡し、結局当たり障りのなさそうな「⋯⋯こんな時間まで大変だったね」を捻り出す。そんな名前の横で、御幸は「はは、ひでぇ顔」と可笑しそうに笑っていた。

 鳴の視線がのろりと御幸を刺す。


「⋯⋯一也⋯⋯帰れっつっただろ」
 

 が、もちろん威力はまるでない。
 
 いつもの威勢の欠片もないその姿に、名前もつい笑ってしまった。
 

「ふふ、元気なさすぎ」
「うるっさいな⋯⋯つーかあいつらプロのアスリートとしてありえねぇんだけど⋯⋯今日も試合あるっつーの⋯⋯」


 名前たちの目の前をずるずると通り過ぎ、そのままソファに倒れ込んだ鳴は、その三秒後には寝息を立てていた。


「ね⋯⋯寝ちゃった⋯⋯」
「はえー」
「冬合宿最終日のようなボロボロ具合⋯⋯」


 仮にも一介のプロ野球選手だ。ただ一晩徹夜をしただけではこうはならないだろう。一体何をどうしたら鳴をここまでにできるのか。妄想を膨らませひとり勝手に慄いてから、鳴の部屋から毛布を持ってきて、そっと掛ける。

 ここから名前と御幸は朝食を仕上げ、和気藹々と食べ、片付けをし、御幸の帰り支度をするわけだが、その間鳴はぴくりとも動かず泥のように眠っていた。






 
 玄関で靴を履いている御幸の背に、ぎゅうっと抱き着く。昨晩と同じ場所で、同じことをしている。そのはずなのに、心境はまるで異なるものだった。

 帰らないで。寂しい。まだ一緒にいたい。御幸を引き留めようと溢れ出る言葉すべてを、胸に押し込む。


「また来てね」


 絞り出したのはちいさな声。立ち上がり振り返った御幸は、少し困ったように名前を見下ろした。

 きっと声音で、バレてしまった。

 困らせたいわけではないのに。だから余計な一言を口走ってしまわないように、必死で押し留めたのに。もっと余裕のある彼女でいたいのに。

 理想とかけ離れた自分の姿が情けなくて、自然と目線が下がる。俯きがちになった頭を、御幸はぼふぼふと何度も撫でてくれた。

 
「ああ、またな」


 ──うん、と。出したはずの声は音にはならず、ただ頷きだけを返した名前がそこにはいた。

 そんな名前を残して、名残惜しそうに、ゆっくりとドアが閉まった。




  
◆春に攫わる◇

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