グラウンドの隅。木が重なり影を落とし、人目の届かないその場所に、滅多に使われることのない古びた水飲み場がある。蛇口がふたつ付いているだけのその裏で、名前はぼんやりと空を見ていた。
意外だった。
上を向いているとは思わなかった。てっきり蹲り、膝にでも顔を埋めていると思っていた。
だから、名前が裏に身を隠したのを目視していた真田は、なんの衒いもなく表側上部から覗き込んだのだ。名前のつむじが見えることを想定して。しかし予想に反し互いにばっちりと目が合ったものだから、名前のみならず真田も驚きの声を上げた。
「ひぃっ、さ、真田さん?! び、びっくりした〜〜〜! もう、急に覗き込まないで下さいよ」
「お前こそ呆けた顔で空見てんなよ、びっくりすんだろ!」
「そんな、どんな顔でどこ見てるかはわたしの自由なのに⋯⋯!」
何故怒られているのか、納得できずぷりぷりと真田を見上げる名前の瞳に、真田越しの空が映る。さわさわと揺れる木々の葉の隙間、まだ春の色を残す青空。そしてグラウンドから吹く風。高校生の頃もこうして、野球を取り巻く空気に幾度も救われてきた。
きっと、今回も。だからここに来てしまったのだ。そう思う。
「まぁいいや。それはそうと、お前作り笑いヘッタクソだなー」
「え⋯⋯そう⋯⋯でしたか⋯⋯? 結構自信あったのに」
「おいおい、そんな驚き方してくれるなよな。まるでほんとに自信あった奴の挙動だぜ?」
「いえ、ほんとに自信あったんですけど⋯⋯でもそっか、それで心配して来てくれたんですね」
ありがとうございます、とまたぎこちなく笑う名前に、真田はズルっと滑り落ちそうになった。空笑いに対しての自信なんてものは持っている必要がないし、そもそも自信を持てるほどの腕前にも程遠いくせに。何を言っているんだ。
呆れて見下ろす真田をよそに、名前は木漏れ日に揺られながら静かに言葉を落とす。
「──真田さん」
「うん?」
「世界がひろがるって、いろんなことが起こるんですね」
「⋯⋯どーせ誰かの妬みだろ。何も悪いことしてねぇんだから気にすんな」
──そうだ。妬みだ。
明らかに名前に対して向けられた妬みだ。鳴か御幸か。どちらかに強い恋愛要素を求める者──所謂リアコというやつか──の所業だろうか。女の嫉妬は同性に向くことが多いともいうし。
「⋯⋯どっちだと思いますか?」
「兄貴じゃない方に一票」
「やっぱりそうですよね⋯⋯」
鳴はあまり秘密主義ではないし、高校時代のインタビューからも予想はつくが、メディアへの露出も多く、しかも結構ノリノリだ。それでなくとも家族構成などは今時すぐ手に入るし、そこそこ身近なところに探りを入れれば名前をえらく可愛がっていることは割と容易にわかるだろう。しかしあくまで兄と妹。こんな事をする理由になるのか疑問であるし──兄妹間での飛躍した妄想をする者の場合は別かもしれないが、いずれにせよ少数として──、身内に手を出すリスクは非常に大きい。
とすれば、御幸のファンの可能性の方が高いだろうか。
しかしだとすると、名前と御幸の関係が知られているということになる。無論、高校時代はオープンに付き合っていたのだから、どこかから、そして悪気なく、当時の情報が漏れることはあるだろう。どこぞの記者による取材ならともかく、日常会話で話題に上れば誰だって危機感などなく話してしまうと思う。まさかその相手が、名前を陥れようとしているなどとは思わずに。
ちくり、胸のあたりが、痛くなる。
一方的に向けられる敵意は痛い。まだ、痛いと思ってしまう。この先こういうことが幾度も起こるにつれ、慣れて、何も感じず笑っていられるようになるだろうか。
「わたし⋯⋯さっき部室では『大変大変!』なんて言いましたけど⋯⋯ほんとは大変なんかじゃ、ないんです」
鳴も、御幸も。どれ程の努力をしてその場所に立つまでに至ったのか。そして今現在、どんな覚悟で立っているのか。知っている。知っているつもりだ。共に歩んできた現実と、名前にでき得る精一杯の想像力とで、“知っている”と思っている。そんな彼らの近くにいられることがこの上ない誇りだ。
大変だなんて。
その場を凌ぐためとはいえ、簡単に口にしていい言葉ではなかった。
「大変なんて言っちゃったこと後悔してるくらいで⋯⋯だから、大丈夫なんです。それより、わたしたちのことどこまで確証得られてるかが心配で⋯⋯もしかしたらもう向こうでは大事になっててすごい迷惑かけちゃってたりとか⋯⋯あっ、そういえばこの間お兄ちゃんに『しばらく一人の移動はタクシー使え』って言われたのって、これが原因かも⋯⋯?! もしそうならわたしのせいで二人に──いたっ!」
真田に口を挟む機会を与えず話し続けていた名前の頭頂部に、鋭い痛みが走る。結構、痛い。
「な、つ、つむじ抉らないでください!」
「抉ってはねぇよ、押しただけで」
「投手の指圧での押すは抉ると同義です⋯⋯」
つむじを押さえうじうじと俯く名前に、真田の呆れた声が降りかかる。
「あのなぁ、大丈夫なワケねぇじゃん。名前がこんなことしてくるヤツに負けねぇことくらいは知ってるけど、傷付く傷付かないはまた別の話だろ。平気なフリしてつまんねぇこと喋り過ぎ」
「──⋯⋯」
つむじを両手で覆ったまま、蹲った膝の上に顔を埋めてしまった。ちくり、胸のあたりが、痛い。
どうして、この人は。
いつも揶揄ってばかりのくせに、こんなふうにして。目を瞑ろうとしていた箇所を抉じ開けてくるのだろう。
「⋯⋯でも、だって、悔しいじゃないですか⋯⋯」
こんなことで、傷付くなんて。
知らない場所から顔も見えない相手に一方的に放たれた言葉で傷付いてしまうことが、悔しい。
名前の存在が二人の足枷になってしまっているかもしれないという可能性が、悔しい。
弱い自分も。迷惑をかけてしまう側の自分も。嫌だ。嫌なのだ。そんな自分でいたくなくて、目を背ける術を探してしまう。平静を装えば、いつしかそれが本物になってくれる気がして。
「まぁその気持ちも分かるけどな。でも意地張って強がってんのもしんどいじゃん。まずは傷付いてることを自分で素直に認めちまった方が幾分マシだぜ」
「それは⋯⋯真田さんの経験談ですか? それともおばあちゃんの知恵袋?」
「ははっ、さあなー」
からっとした笑顔だ。これまでの真面目な表情が崩れて、いつも名前を揶揄する時の雰囲気が顔を出す。
「それに、アイツらどっちも“お前のせいで”なんて思わねぇよ。んなことくらい名前だって分かってんだろ。分かってるくせに自分を卑下すんのは、自分を可哀想がってやりたいヤツのすることだぜ。ついでにアイツらにも失礼だし」
「き⋯⋯厳しい〜〜〜」
「悪いな、生憎オブラート持ってなくて。それに優しくし過ぎて惚れられても困るじゃん?」
「ふふ、何言ってるんですか」
いつからか名前は、泣いていた。
真田の言葉が厳しかったからではない。言葉にすることで紐解かれた心。そこから溢れる幾多もの感情が散り散りになってしまって。ぐちゃぐちゃで、苦しくて、なのに優しさにも触れてしまって。パンクして、涙となって溢れてしまった。
ぼたぼたと涙を落とす名前の姿を、真田はただ、静かに見下ろしていた。
なぜ、名前がこんな想いを味わわなければならないのだろう。有名人と関係を持つということはこういうことなのかもしれない。だが、子どもの頃から想いを寄せていた相手が、才と努力の結果で有名になっただけなのだ。名前はただ、ひたむきなだけなのに。
なぜ、名前が。
知らずのうちに硬い拳を作っていた。これ以上かける言葉が見つからない。ならば言葉の代わりに、と抱き締めるわけにもいかない。それが出来ればどんなに良かっただろうかとは、──思うけれど。
拳を今一度握り締める。
懸命に耐え忍ぶ名前の傍らに佇むことが、唯一許された寄り添いのような気がした。