ボッフン!
派手な音を立てて倒れ込んだベッドの上。弾みで跳ねた脚を投げ出して、枕に顔をうずめる。
あのあと、泣き顔が落ち着いてから部に戻った。聞いてみれば他にも「噂」を耳にしたという部員は何人かいて、噂というものの足の速さに驚きよりも恐れを覚えた。
「⋯⋯疲れた」
ぼんやりとした頭の中に、帰宅後のタスクが気怠げに浮かんでは消えていく。食事、入浴、掃除、課題。何もしたくない。疲れた。身体的な疲労ではない。精神が酷く摩耗している。
きっと明日からも、暫くはこんなことが続くのだろう。
部員という身近な者からさえ、「本性隠してんのかな」「遊びたくなる気持ちも分かっちゃうなぁ」という言葉がぽろっと出てくるのだ。他人からはもっと直接的に問われたり、揶揄われたり、心無い言葉を向けられることがあるかもしれない。
そんな日々を想像して、重たい吐息を吐く。
「⋯⋯会いたいな」
こんな時、すぐに会いに行って、抱きしめてもらえたら。それだけで大丈夫なのに。
何か特別な言葉が欲しいとか、そういうことではない。ただ、御幸に抱きしめてもらいたい。それだけで立ち向かえると思うのだ。どんな言葉を投げかけられても、きっと笑って対応できる。そのための力になる。
「あー⋯⋯」
溜め息のような声が出る。頭が重怠い。考えたいことがありすぎて、かえって脳がショートしてしまったかのように働かない。脳側から考えることを拒否されているかのように、思考が働かないのだ。
ただ、絡まって行き場をなくした思考の痕跡だけが、大きな塵屑のように頭の中を占めている。
いっそのこと「なるようにしかならないのだから」と割り切って、今日は寝てしまおうか。そう思ってはみるものの、働かないくせに妙に頭が冴えてしまって眠れそうにもない。
身体と脳がちぐはぐで気持ち悪い。
屍のように臥せったまま、普段あまり思わないことを思う。
──明日、来なきゃいいのにな。
そんな時だ。インターホンが鳴ったのは。名前好みの呼び出し音に設定されているそれが、夜の来訪者を告げている。
こんな時間に。誰だろう。動きたくない。モニターまでが酷く遠い。身体が重い。しかし確認しないのもそれはそれで怖い時間帯でもある。今日は鳴も帰ってこないし。
結局、ベッドに張り付いた身体に鞭を打ち、モニターまで重たい足取りで歩く。そして画面を確認して。
「え⋯⋯」
刹那のことだ。錆び付いたようだった頭が、途端に忙しなく動き出す。先日確かに「また来てね」とは言った。言ったが、なにもこんなに突然、連絡もなしにやって来なくても。いや勿論嬉しいのだけれど。と思いつつ、慌てて通話ボタンを押す。
「か、一也くん?!」
「突然来て悪りぃ、少しだけ大丈夫か?」
「わたしは大丈夫だけど、でも、今日は夜移動って⋯⋯」
「そーそー。だから一瞬だけしか居られねぇんだけど」
答える御幸の表情は、画質が荒くてはっきりとはわからない。声の調子は普段通りな気がするので、緊急事態ではなさそうである。
偶然だろうか。それとも。
いや、今日名前に起きたことを御幸が知っているはずもないし、そもそもじわじわと広げられた噂が発端となって偶々今日露呈したというだけだ。偶然以外あり得ない。
御幸には、話せない。
相手も、その意図も、何ひとつわからない。真田と話していたのはすべて仮定と妄想だ。そんな話を御幸に聞かせてどうなる。ただ余計な気を揉ませてしまうだけではないか。
それに真田は「御幸は名前のせいなんて思わない」と言ってくれたが、その逆はどうだろう。仮に御幸が、“自分のせいで名前をこんな目に”なんて思ってしまうようなことがあったら。それならば名前から離れよう、と思ってしまうようなことがあったら──
話せない。
いや、きっと、話したくないのだ。
──失うのが怖いから。
兎にも角にもオートロックの解錠ボタン、次いでエレベーターの解錠ボタンを押し、玄関のインターホンが鳴るのとほぼ同時にドアを開けた。
「いらっしゃーい! どうしたの? 上がってく? そんな時間ないかな」
「いや、うん、今日は
言いながら自然な動作で伸びてきた腕に引き寄せられる。次の瞬間には、むぎゅ、と御幸に包まれていた。
「なんか突然思い立っちまってさ。けど今思えば先に電話しとけよって話だよな」
「ふふ、そだねえ、五分くらい猶予をくれると女の子としては助かるけど、でも今日はまだ着替えてもいなかったしセーフ! 少しでも会えるの嬉しいな」
嬉しい。本当に嬉しい。曲がりなりにも傷付いた心に御幸を沁み込ませるように、すりすりと頬を擦り付ける。
すると応えるように、名前を仕舞った腕がぽんぽんと頭を撫でてくれた。
その刹那のことだ。
ふつりと、心で張り詰めていたものが優しく切れる感覚がして。
「⋯⋯? 名前?」
「⋯⋯っ、ごめん、なんか⋯⋯」
自分でも驚いた。
涙が、出てきてしまったのだ。
堰を切ったように、はらはらと。
会いたいと思っていた。抱きしめてもらうだけで大丈夫なのに、と。
違った。そんなに強くはなかった。むしろ弱くなってしまった。御幸という存在に甘えて、安堵した心が俄に弛緩してしまったのだ。
「⋯⋯どーした? 何かあったか?」
「ううん。でも気付かないうちに新しい環境の疲れが溜まっちゃってたのかな。急にごめんね、びっくりさせちゃ──⋯⋯」
目元を擦って見上げた御幸の顔。思わず言葉を飲み込んでしまった。
「⋯⋯一也くんこそ何かあった⋯⋯?」
何故、どうして。
御幸がそんな表情をするのだろう。名前が急に泣き出したからといって作る表情ではない。だって、こちらの心臓がぎゅっとなるような。見ているほうが、泣きたくなってしまうような。
こんな御幸の顔、初めて見た。
おろおろと御幸の服を掴む。「一也くん⋯⋯だいじょーぶ⋯⋯?」と情けない声が出る。すると御幸は、今一度名前の頭を撫でながら僅かに視線を逸らした。
「なんつーかさ、ちょっと面倒なのに絡まれちまってて。名前、辛い思いさせちまったんだろ。悪りぃ、俺のせいだわ。だから俺、これから──」
この瞬間、名前の滅多に仕事をしない第六感が働く。この表情と声調。何となくだが、しかしピンと来てしまったのだ。御幸が何かを曲げようとしているのではないかと。御幸を御幸たらしめる大切なものを。たぶん、きっと、名前を守るために。
御幸の言葉を遮って、懸命に言葉を紡ぐ。
「嫌だよ。謝ったりなんてしないで。何がごめんなの。確かに一也くんが言うように、わたしにもちょっとしたことはあったし、一也くんにどんなことがあったかも知らないけど、それでもわたし、断言できるよ。一也くんのせいだなんてこと一個もないって。一也くんが謝ること、一個もないって」
この時名前を突き動かしていたのは、爆発的な感覚だった。日常の中でも苛立ちや小さな怒りを感じることはある。でもこんな。沸々と煮え滾るような。何かを破壊したくなるような。そんな怒りは、もしかすると初めてかもしれない。
今度は怒りで涙を撒き散らし、早口で捲し立てるように話す名前を見て、御幸は呆気にとられた様子で「お⋯⋯落ち着け⋯⋯?」と宥めてくる。
「わたしは落ち着いてます。一也くんにそんな顔させて謝らせる人間が存在してるってことに激しい憤りを抱いてるだけ」
「おい⋯⋯顔怖ぇぞ⋯⋯?」
「怒ってるんだもん、当たり前でしょ!」
このままでは、──御幸一也が揺らいでしまう。
名前にはそれが怖い。御幸一也という人間が揺らいでしまうことが、怖い。野球に魂を売ったような、その姿こそが御幸一也だ。昔から、ずっと。それなのに、名前の存在が御幸のスタンスを変えさせる原因となってしまうこの状況が、誰かによって意図的に生み出されている、そのことが許せない。
その想いが、名前を強く逞しくする。
「一也くん今⋯⋯野球のことか対人のことかわかんないけど、一也くんであることを曲げようとしてた⋯⋯? わたし、嫌だよ。わたしを守ってくれようとして、一也くんが変わらなきゃいけないなんて」
「いや、けどお前──」
「一也くんは、いつもわたしを信じさせてくれるでしょ。だから今度は一也くんの番。今度は、わたしを信じることを頑張って。わたしも戦える。っていうか戦いたい。大丈夫だから。一也くんにあんな顔させる人のこと、ほんとに許せないの。一也くんのこと何にもわかってないんだもん!」
「お、おい⋯⋯?」
「こちとら何年御幸一也強火担やってると思ってるの?! 舐めないでほしい!」
「⋯⋯つよびたん?」
滅多に見ない名前の謎の勢いに気圧され気味の御幸を横目に、名前は拳を作ってふんすふんすと鼻息を荒くする。
どこの誰だか知らないが、恐らく御幸に多大なる好意を抱いているのであろう人物。自分のことだけだ。御幸のことなど何も考えていない。あんな顔をさせておいて、きっと喜んでいるのだ。
そんな人間相手に傷付いてなどいられない。戦いたい。負けたくない。守られるばかりではない。直接対峙することはなくとも、名前にも戦えるはずだ。
いつしか止まった涙の代わりに、瞳にぎらぎらと闘志を燃やす名前に、御幸はついに笑い出す。
「はっはっはっ、ワケ分かんねぇー、お前最高、はは、俺の女つえー」
「そうだよ、一也くんのこととなるとわたしは強いの」
ぎゅう、と抱きしめ直された腕の中。ああ、わたしにも頑張らせてくれるんだな、と感じる。
「ここまで言われちゃあなぁ。⋯⋯ヤバい時はぜってぇ言えよ。つーかあとで詳細電話で聞かせてくんない?」
「うん」
今なら話そうと思える。
互いが離れていってしまうことを危惧して口を噤むのではなく、一緒にいるために、同じ方向を向いて各々立ち向かう。その想いを確認できたから。
「あと片が付くまで一人にはなんなよ」
「うん。お兄ちゃんがタクシー代にってカードくれたから大丈夫」
「は? カード?」
「ふふ、いいでしょ」
そして、御幸に抱き着きながら笑う名前の姿が、御幸を強くするのだ。