たわむ糸


「あ、あの子だよ、ほら」
「ねーねー、俺らとも遊ぼーよー。結構楽しませてあげれると思うよ」
「はは、馬鹿お前ヤメロって」

 とか。

「プロ野球選手の妹ってマジ? 他球団でもサインとかって頼めるの?! あたしずっとファンの選手いてさ!」
「ていうかどんな感じなの? やっぱりお金凄く稼げるの? いいなぁ、贅沢三昧」

 とか。
 

 噂を耳にしたらしき人間は、男関係を揶揄ってくる者、野球選手の妹という点に興味を示す者、味方になってくれる者、取り敢えず何かを批判だけしたい者、我関せずな者、様々だった。

 わかっている。
 ほんの少しの、辛抱なのだ。
 
 時間が経てば根拠のない噂など立ち消える。皆ひとつの話題にいつまでも固執するほど暇でもないし、そもそも他人の噂話にそこまで興味もないのだ。目の前にぶら下がったから一瞬だけ飛び付いて。漠然と流れに乗っかって。すぐに手を離す。現れた批判対象をなんとなく一緒になって批判して、まるでそんな自分が少し上の立場にでもなったかのような錯覚を覚えて。

 その連鎖が止まるまで、ほんの少し、待つだけ。そうすればまた以前の日常が戻ってくる。これまでだって、自分に照準が合っていなかっただけで幾度となく目にしてきた光景だ。

 だから、その日までをどう過ごすか、どう対応するか。そこが専らの課題だった。だが、それは身構えていたほど辛いものでもなかった。

 あの日、御幸と話せたからだろうか。

 他者からの視線や言葉に思っていたほど心を砕かれない。心の中心に堅固な支柱のようなものが立っている感覚があるのだ。それに、メンタルの筋トレだとでも思えば随分と気も楽だったし、御幸との未来を逞しく生きていけるのかと腕試しをされているような気にさえなれて、燃えてしまった。

 ──皆のおかげだな。 
 
 心底そう思う。名前には御幸も、家族も、青道の仲間も、たくさんの味方がいる。彼らが名前を支えてくれている。

 何人もが連絡をくれるのだ。

 例の女が元青道部員に接触を図ったことから部員間で話でも回ったのか、事態を聞きつけた仲間たちが、名前を心配して声を掛けてくれる。


「今日は沢村くんが電話くれたんだよ」
「沢村が? へぇ」
「『久々にキャップに球受けてもらいてぇーーーーーー』ってずっと言ってた」
「名前の心配じゃねぇのかよ」
「ふふ」


 電話で名前からの報告を聞く御幸の声に、あの頃の懐かしさが宿る。思い出が鼻の奥を擽って、青道のグラウンドの匂いが立ち込める。

 あまりにも濃い時間を共に過ごした仲間たち。たくさんのものを曝け出して、ぶつかって、空気が在るのと同じように、当たり前に同じ空間で生きてきた。

 彼らの話をする時の御幸にはいつも──恐らく本人は気付いていないだろうけれど──、少しだけ少年らしさが滲むのだ。きっと今御幸は、電話を片手に虚空を眺め、あの日々を懐古している。


「昨日はもっち先輩でしょ、その前はナベちゃん先輩に金丸くんに⋯⋯皆、俺ら部員から情報が漏れることは絶対ねぇからって言ってくれるの。誰に何言われても気にするな、本当のことは俺らがちゃんと知ってんだから、って」
「えー、俺には『しっかりしろ』だの『ちゃんと守りやがれ』だの『プロだからって浮かれてんじゃねーーーよ』だの、あらゆる文句ばっか届くんだけど」
「あはは、信頼されてるねぇ」
「されてねぇだろ」
「されてるんだよ」


 それはまるで、“在学中に御幸が周囲に見せていた名前への気持ち”に対しての信頼のようで。状況は穏やかではないというのに、名前ばかりがこんなにも嬉しい。 
 

「他には何か変わったことねぇか?」
「うーん⋯⋯あ、もしその女の人が接触してきたとしても最後はフィジカルで負けないようにね、筋トレ始めたよ」
「はあ? なんの勝負すんだよ、なんの」
「そりゃあもちろん一也くんを賭けた取っ組み合いだよ。わたし、唯一の男兄弟があんな感じだから、肉弾戦の経験ないんだよね。でも負けるわけにはいかないでしょ」
「あのな、冗談は冗談ぽく言うもんだぜ」
「? ほんとのことだけど⋯⋯?」
「は?」


 御幸はぱちりと瞬いた。名前の真剣な口調に、咄嗟に真偽を判断しかねる。
 
 いや、実際に名前が手を出すことはないだろう。しかしきっと、筋トレをしているというのも、対峙する気構えも、どちらも本当だ。
 
 だが相手には常識などない。何をしてくるか分からない。どんな物騒な物を懐に隠し持っているか分からない。“万が一にも”、があってはいけないのだ。

 そのことを説教でもしようと口を開いた御幸より僅かに早く、名前の声が電話を伝う。
 

「なーんて。うそうそ、絶対に一人にはならないようにしてるし、もし話しかけられても一言も応じず無視するって決めてるから。でも戦う準備があればあるだけ頑張れるし、それに筋トレでスタイルまで良くなっちゃったら、嬉しいし自信にもなるなぁって」


 可愛い下着とか似合うようになっちゃったりして、と珍しいおちゃらけ方をする名前に、電話越しに溜め息を吐く。

 無理、させちまってるよな。早く解決してやりてぇな。願いのようにそう思うのに、自分ひとりのアクションでは何ひとつ解決できないことに苛立つ。 


「それにしても一也くん、なんだかポジションがヒロインみたいになってきたね、『やめて! 私のために争わないで!』ってやつ」
「全然違ぇよ、部外者が爆弾抱えて突っ込んで来ただけで、そもそも俺の気持ちは最初から決まってんだから」
「そ、そっか⋯⋯ありがとう⋯⋯」
「馬鹿言ってねぇでそろそろ寝ろ」
「はあい」




 
 この時の言葉通り、名前は徹底して一人を避けていた。決して接触を許さなかった。何を言われても、凛と背筋を伸ばしていた。

 そんな日々が続くことに業を煮やしたのであろう女は、あの日以来初めて、御幸の前に姿を現すことになる。

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