たわむ糸


 寮の近くでのことだった。

 夜空を覆った鈍色の雲から、重たい雨が落ちている。濡れたアスファルトを踏み締めるたびに鳴る湿った音が、やけに耳に障る。嫌な気配を纏った雨だった。早く帰って寝ちまいてぇな。そんなことを考えた時だ。傘に遮られ欠けた視界の下方に、知らない靴の色が飛び込んできて、御幸は反射的に足を止める。

 道幅は十分ある。傘を差していてもすれ違うことは容易だ。それなのにわざわざ目の前に立たれるということは。

 脳内で瞬時に警戒音が響く。女物の靴だ。雨が連れてきた嫌な気配は、これだったのだ。

 すぐに傘をずらし視線を持ち上げる。
 覚えていたくもなかった顔を、一目見た瞬間に認識してしまった自分が嫌だった。「こんばんは、来ちゃいました」と、貼り付けたような満面の笑みにぞわりと臓腑が収縮して、酷い嫌悪感が身体を包む。

 コイツが、名前を。

 傷付け苦しめているのだ。


「⋯⋯警察呼びますよ」
「えっ、わあ、嬉しい! 私の顔覚えてくれたんですね?!」


 狂気が服を着て歩いているのかと思う。
 膂力では決して負けることのない相手だ。それなのに得体の知れない恐怖を放ってくるこの存在は、最早物の怪の類なのかもしれない。

 傘を持っていない手を、ポケットに突っ込む。あの日からずっと忍ばせていた高性能のボイスレコーダー。何度もシミュレーションした。ノールックでスイッチを入れることなど造作もない。

 
「やっぱり正攻法じゃないほうがよかったんだぁ⋯⋯あの、御幸選手、そろそろ彼女さんのヤバさに気付いてくれましたか⋯⋯?」
「は?」
「なんていうか、周りから色々言われてるのに凄くしたたかじゃないですか。そういうのあんまり可愛くなくないですか? 私だったらすっごく悲しくて塞ぎ込んじゃうけど⋯⋯」
「彼女って⋯⋯まだ決めつけてるみてぇだけど──」
「今更とぼけなくてもいいですよ。私、お二人の関係を世間にバラしたいわけじゃなくて、あの子の本性を暴いて、代わりに私を好きになってもらいたいだけですから。今日は御幸選手もそろそろ気付いてくれたかなぁって思って、それで待ってたんです」

 
 雨の中でも声はよく聞こえる。きっとボイスレコーダーでも拾えているはずだ。高性能だし。というわけで、少しでも相手が不利になる証言が取れるよう、注意深く会話を運ぶ。

 
「俺はとぼけてんじゃなくて事実言ってるだけだぜ。まぁ勝手にそう思っててもいいけど。⋯⋯じゃあ、名前が傷付くように色々仕掛けてんのはアンタってこと?」
「仕掛けたんじゃなくて、真実を流布してるだけですっ」


 御幸は憐憫の目を向けた。
 御幸に好かれたいあまり名前を悪者に仕立て上げ、あたかも御幸が被害者であるかのような妄想を生み出しているのだ。しかもこの人間はそれを真実として認識し、疑ってもいない。

 
「御幸選手にもこんなに迷惑かけてるのに、身を引かないなんて本当に我の強い女性ひとですよね」
「⋯⋯」
「幻滅しませんか? 私なら御幸選手のためを思ってすぐに身を引くのに⋯⋯それが御幸選手を思う人間の取るべき行動なのに⋯⋯だからもう我慢できなくて、私あの子に直接教えてあげたいんです。なのに、警戒心が強くてなかなかお近付きになれなくて」
 

 骨が軋むほど拳を握り締めていた。殴りたい。こんなに人を殴りたいと思ったのは生まれて初めてだ。しかし。
 
 ──名前が戦っている。
 
 その努力を、御幸がここで台無しにするわけにはいかない。殴ってしまえばきっと、それこそ相手の思う壺だ。人の世の言葉が通じない相手の言葉に激昂してはいけない。言い聞かそうとしてもいけない。虎視眈々と。確実に仕留められる機会を待たなければいけない。

 雨の音に集中する。サァァ、と落ちていく音に、少しだけ頭がクリアになる。今日はもう十分だ。これ以上の接触は御幸が限界だ。
 
 一瞥だけして無言で横を通り過ぎる。立ち去る御幸の背を、雨音に紛れた耳障りな声が追ってきた。
 

「まだだめなんですね⋯⋯大丈夫です。私、諦めませんから」
 
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