業を煮やす、という言葉がぴったりだと思った。
いつになっても折れない名前と、微塵も靡かない御幸。そして思ったように扇動されない周囲の人間。業と呼ぶに相応しい心を沸々と煮やした彼女が次に手を出したのが、SNSだった。
デマで十分なのだ。
真偽など確かめずに飛び付く人間は数多いる。話題性に群がり、正誤よりも、誰かを攻撃したり自分より下に見たり、そうして自分の存在を確かめる、そんな人間がいくらでも集まる。
だから、名前に関してのデマを流布し、複数アカウントでの自作自演などを駆使してとにかく話題にすれば、関係各所──勿論本人も含めて──に伝わる確率が上がる。その波紋が広がった結果、名前が今度こそ潰れてくれれば万々歳。インターネットに住まう不特定多数から向けられる、無責任な悪意に塗れた剥き出しの言葉の数々には、人の心を簡単に殺す力がある。
そうして御幸と離れるか、或いは御幸のほうが離れるか。
狙いはそんなところだったのだろう。
しかし、──甘かった。
成宮鳴という男の存在を、彼女は把握しきれていなかった。SNSの世界は、鳴が張っていたのだ。
これは御幸から話を聞いたからというわけではなく、プロになってからというもの、ただただずっっっと張っていたのだ。有名になった身であるから、万が一にも妹に何かが起こらないようにと。
そして勿論鳴は、相手が誰であろうと容赦はしない。鳴が“名前への”誹謗中傷だと認識した瞬間、運命は決まっていた。
【一也、来たよ】
と、その言葉だけを呟いて。
弁護士が然るべき対応を取れる土俵にのこのこと上がって来てくれた、と言わんばかりの速度で、相手を捕えにかかった。
名前には釘を刺していた。当面の間SNSには触れないようにと。そうすれば例えどんなに酷い言葉が連ねられていようとも、見ていない当人には届かない。
見ていなければ、無傷なのだ。
また、この誹謗中傷に追従する形で、カメラロールや御幸の所持するボイスレコーダー等を証拠としてストーカー行為も認められ、法的に接触を禁止することもできた。
こうして徹底的な裁判や損害賠償を経ることになった彼女だが、いつしか御幸への偏愛は根深い怨恨へと姿を変えていた。動機は完全なる逆恨み。超絶熱心な“アンチ御幸”の爆誕である。
しかしそんなものを御幸が気にするはずもなく、というか、目にすることもなく。
それぞれが、大事な人と、そしてその人と一緒にいる未来を守るために。各々のフィールドで戦った結果だった。
◆
「そーだ名前、もうタクシー縛りしないでもいーよ」
「え?」
夜も更けたダイニング。
名前の作った夕飯を口に運び、「なんかまた腕上げたね、うまー」と褒めてくれた直後のことだった。春から変わらず、鳴の食事中の反応を間近で見つめていた名前は、ちいさく首を傾げた。
「解決してから暫く様子見てたけど大丈夫そうだから。つーか今や超過激な一也のアンチに変身してて一生笑えるからさ、名前も見てみなよ。常に騒いでるからアカウントすぐ分かるよ」
「えぇ、アンチ⋯⋯?」
解決に至るまでの進展は鳴や御幸から聞いていた。その頃には学校生活もほぼ元通りの過ごしやすさとなっていて、肌感的にも収束を実感していた。
そのまま全てを終わらせてしまえばよかったものを。まさか今度は御幸へのヘイトを叫ぶ側に回るなんて。
「あんなに固執してたのに掌返しがすごい⋯⋯そしてわたしは身内が批判されてるのをノーダメージで見過ごせるハートの強さはまだ持ち合わせてないです⋯⋯」
「そーなの? いちいち傷付かなくていーんだよ、こんなのエンタメエンタメ」
「あはは、強いなぁ」
鳴や御幸への批判や罵言を見ると、自分のこと以上に心にぐさりと刺さる。言葉は凶器だ。有名だからといって。匿名性が高いからといって。他人に対して向けていいはずのない言葉が、余りにも無責任に容易く飛び交っている。だから名前は、もともと野球関連のSNSとはかなり慎重に付き合っていると自負しているし、この先も公式情報以外を目に入れることはないと思う。
そして、考える。
──どうしてだろう。
こんなに制裁を受けてなお、懲りずに今度はアンチとして君臨するあたり、闇を感じずにはいられない。彼女の心の奥深くに巣食っている何か。一体何がそこまで彼女を追い詰めているのだろう。こんな事をしたところできっと気持ちは晴れないし、いつまでも自分の首を絞めるだけなのに。
なんて、考えても仕方ないのだけれど。
「お兄ちゃん達ほどすぐには逞しくなれないけど、でもわたしもね、もし次同じようなことがあってももう少し上手くやれる気がするんだ。生来の強さは才能だとしても、鈍感力は磨けるもんね」
「まぁ繊細さと鈍感さはちゃんと共存できるからさ。あんま難しく考えないで、名前は名前でいればいーよ。つーか“次”なんてもんがあったら一也のこと今度こそ許さないし」
「一也くんのせいじゃないよ」
「誰が何と言おうと一也のせいだよ」
「⋯⋯もう」
名前が何度話そうと、鳴は頑として「名前の言い分はわかるけど、それでも一也のせいだから」という姿勢を貫いていた。きっとこれは、鳴がプロとして生きていく上での信念なのだろう。鳴はそうして家族を守ってくれるつもりでいるのだ。
プロであることの代償。
そう手離しで受け入れることが、名前にはまだできない。無垢に野球と戯れていた少年の姿がいつもちらついてしまう。
性懲りもなくそんなことを思う名前を他所に、鳴はグラスに入ったお茶を飲み干してから、楽しそうに口を開く。
「つーか一也のヤツどうしてやろうかなー。諸々済んだわけだし、名前のことこんな目に合わせた落とし前きっちりつけさせなきゃね」
「はっ、つまり責任取って結婚ってこと?!」
「は?! 馬っっっ鹿じゃないの?!」
「あはは」
空になったグラスに注いだお茶の表面が揺れる。空気が軽やかだ。トラブルを抱えていない“普通”の状態が、如何に有難いことなのかをひしひしと感じる。
「ね、落とし前じゃなくて、解決したお祝いにどこかお出かけしようよ。二人だけだとすっぱ抜かれるのが怖いから、お兄ちゃんも一緒に」
「ヤ ダ ね」
「ふふ、だめかぁ」
わかっている。言ってみただけだ。
遊園地も、動物園も、水族館も、映画館も、行かなくなって随分と久しい。今のところ行きたいという思いが特段あるわけでもない。ただ、たまには御幸と外に出て、歩幅を合わせながらゆっくりと、世界の移ろいを感じたいと思ったりするだけなのだ。
グラウンドで感じる空気の中にはいつも、御幸がいたから。
「あ、じゃあさ、あまってるお部屋にルームシアター作らない? 映画だけじゃなくて試合もトレーニング動画もファン感も何でも流せるし」
「⋯⋯⋯⋯まぁそれなら」
「わーい! ありがとう! 早速アイテム調べます!」
「はいはい、好きにしていーよ。渡してるカードもそのまま持ってていいから」
「お兄ちゃん様!」
大好き! と付け加えると、鳴は満更でもなく鼻を高くした。こういうところは幾つになっても変わらない。可愛い兄である。
そしてこれで御幸とのおうちデートの環境を大々的に充実させることができる。嬉しい限りだ。早速うきうきと調べ物を始める名前の頭を、「ごちそーさま。美味かった。もう遅いんだから今日は寝なよ」と、立ち上がった鳴の手が軽く押さえた。
◇たわむ糸◆