「合宿ですか?」
ジジ、と屋外の照明がちいさな音を立てる。細い月の欠片だけが削ぎ取られたような十六夜。練習後の片付けをしていた名前の問うた声は、蒸した空気に拡がりきらず籠って聞こえた。
暑さの厳しい夏の最中──この間、例の裁判等が並行して動いていた──、真田の口から知らされたのは胸が躍るイベントだった。
「うん、来月な。四泊五日くらいだったっけかな。毎年何校か合同でやるんだよ、でけぇ合宿所みてぇなとこ貸し切って。総当たりの練習試合やったり、ポジションごとに練習したり」
「えー! 楽しそう!」
「朝から晩まで野球漬け。名前好きそうだもんな。まぁ相応にこっちはキツイ訳だけど、強ぇヤツたくさんいるし、楽しいんだよな」
頭の中が忙しなく動く。
練習や試合、それに合わせたマネージャーの動き、必要な準備、加えて何泊もする施設の部屋や食事への期待、とにかく全ての行程のイメージを想像のみで捻出し、勝手に胸を高鳴らせる。
とてもいい。部活っぽいし大学生っぽい。
「そうそう、去年はアイツいたぜ。常連だって言ってたから今年もいるんじゃねぇかな」
「? アイツ?」
「青道のあの足の速ぇの」
「もっち先輩?!」
「あとで部長に今年の参加大学聞いてみろよ。青道は人数いたから、お前の同期も一人くらいいるかもしんねぇぜ」
「うわー! そうします!」
それぞれの進路に散っていった仲間たち。高校で野球を辞めた者も多いが、大学で野球を続けている者も何人もいる。真田の言う通り、誰か一人くらいは合宿参加大学にいるかもしれない。そう思うと胸は更に高鳴った。
◇
まだまだ夏の終わりが見えない、しかし暦の上では夏の終わりの頃。名前たちは都心を少し離れ、合宿地へとやってきていた。
合宿所の探検や荷物の整理もしないまま、まずは参加校の顔合わせ兼ウォーミングアップのためグラウンドに向かう。少しの緊張とたっぷりの高揚。落ち着かなくて、時間よりも少し早く部屋を出てしまった。そんな心を反映するように忙しなくきょろきょろと動く視線が、グラウンドの手前で見覚えのある人物を捉える。
「あー! もっち先輩ーーーーー!!!!」
「おー! 久しぶり」
「お久しぶりですっ」
「元気してんのか?」
「はい、おかげさまで。この前は連絡ありがとうございました!」
わふわふと尻尾を振る犬のように駆け寄り、勢い余った喜びでぴょんこぴょんこと踵を跳ねさせる。
何から話そう。話したいことがたくさんある。たくさんあり過ぎてまごつく。まごついて、取り敢えず倉持の顔を見上げる。「ヒャハハ、落ち着け落ち着け」と笑う顔を見て、むむ、と顎に手を添える。
「変わったような変わってないような⋯⋯!」
「そんな変わってねぇよ」
「でもなんだか大人っぽく感じます」
「そーかぁ?」
卒業してから流れた歳月。その間一度も会わなかったわけではないし、目立ったものが変わったわけでもないのだが、やはり重なった歳月のぶん、何かが確実に変わっている。
こうして知らないところで、皆それぞれの人生を築いていくのだ。
そんなことを朧気に思った、その時だ。別の参加大学がグラウンドに集まってきて、その中に賑やかな声を聞きつける。相変わらず声ですぐに居場所がわかることに笑ってしまう。
「おーい沢村くーん!」
「うおー苗字! 倉持先輩も!」
おおきく振った手に気が付いた沢村が、輪を離れ駆け寄って来てくれる。そして目の前に来るや否や、ガバっと頭を下げた。
「お久しぶりです倉持先輩!」
「おう、相変わらずウルセェな」
「はい! 元気にやらせてもらってます!」
清々しいほどに体育会系が染み付いている挨拶である。見慣れているとはいえ関心してしまってから、声を掛ける。
「ねー、沢村くん、わたしには?」
「お前はあんまり久しぶりじゃない」
「そういうことじゃないです」
「? つーかどうよ? 俺ちょっと大学生っぽくなってねぇ?」
「うーん⋯⋯? 沢村くんは変わらないかな」
「かーっ! 全くもって見る目がない!」
全くもって変わっていない沢村を目の前にして、笑ってしまっていた。
「なんか、この喧しさに安心する日が来るのが新鮮な気持ち」
「何か言ったか?!」
「ありがとうって言ったんだよ」
「言ってねーだろ!」
「せっかく褒めてたのに」
「ヒャハハ」
こんな会話に花を咲かせている最中にも、参加者たちが続々と集結してくる。その面々を見て、独り言のように零す。
「関東圏だけじゃなくて、甲子園とかでも見覚えのある人やっぱりいますね。大学だと日本全国いろんなところから集まるんだなぁ」
高校時代、収集した多くのデータ。今でも頭に入っている。参加している何人もがヒットする。これから数日間、この環境で野球ができるということにわくわくする。
「哲さんみたいにプロ行かないで怖ぇもん溜めてるヤツも結構いるよな。名前ちゃんとこは真田いるし」
「おお、薬師の?」
「うん。きっと沢村くんは一緒に練習することもあるんじゃないかな。わたしもブルペンサポートに少し入る予定だからよろしくね」
「ハッハッハー! 見せてやるぜ、俺の進化を! 驚くなよ!」
「うわー! すっっごい楽しみ!」
純粋な気持ちだった。
為人は変わっていないが、果たしてその球はどんなふうに、卒業後のこの数ヶ月間を生きてきたのだろう。新しい場所で、新しい捕手と、どんなふうにして。それを知れるのが純粋に楽しみで仕方がない。そんな名前の食い気味な勢いと圧に、沢村がたじろぐ。倉持が笑う。
「ヒャハハ! 沢村、気を付けねぇとデータ全部取られるぜ。見てみろよこの活き活きとした瞳の輝きを」
「んぐ、敵だと厄介だなお前⋯⋯!」
「えっ、いや、そういうつもりは」
「つもりがなくてもそうなっちまうんだよお前は!」
「えぇ⋯⋯」
そんなこと言われても、と眉を下げる名前を見下ろして、沢村は何か思い当たったように話題を変えた。
「そういや苗字は大丈夫なのか?」
「ん?」
眼差しでわかった。沢村が何のことを「大丈夫か」と心配してくれているのかということは。
「うん。もう大丈夫だよ。元気もいっぱい。沢村くんも前は連絡ありがとうね。今、裁判とか色々してるところなの」
「うお⋯⋯急に生々しいぜ⋯⋯」
ごくりと喉を鳴らす沢村に、苦笑いで答える。
「お兄ちゃんというか一也くんというか球団側というか、専門の人に任せてやってもらってるから、わたしは何もしてないんだけど」
「おお⋯⋯でもそっか、苗字が元気ならよかった! 合宿は存分に楽しもうぜ!」
明るい表情で豪快に笑ってくれるこの存在に、これまでもきっと、幾度も救われている。名前だけではないはずだ。ほっと胸があたたまる。
次いで、倉持が問うてくる。
「アイツは?」
「はい、一也くんも変わりなく」
「ならいーや。どうせ放っときゃ一軍にも上がってくだろうしな」
「ふふ」
この手放しの信頼が心底嬉しい。素っ気ないふりをして、盟友──なんて言ったら嫌な顔をされてしまうかもしれないが──のことを気に掛けてくれている。
──いいなあ。
野球をしていれば、こうして繋がれることがある。それは、野球と生きてきて、そしてこれからも生きていく名前にとって、なんだか救いのような気がした。