猶予うものの泳ぐ夜



 あの日と同じ月だ。
 
 「合宿あるんだって!」と名前が話していた日。電話が終わったあと、少し気が向いて調べてみたら“十六夜月”と言うのだと知った。

 狭い寮の窓から見上げた広い夜空。ぽってりと浮かぶ膨れた月を見上げてから、携帯のボタンを押す。
 
 日中にメールが届いていた。こちらを気遣ってか【何時でもいいから時間できたら電話しろ】と命令口調で送られていたそれは、かつての仲間からのものだった。
 
 結構遅い時間になっちまったけどいーのかね、と思いながらコールすると、一コールと半分ですぐに呼び出し音は途切れた。

 代わりに、懐かしい声が応える。
 

「おう」 
「何? 珍しいじゃん」
「ちょっとな」
「合宿なんだろ、名前に会ったか?」
「会ったから連絡してんだよ」
「そりゃそうだろうけど」


 でなければ倉持がこうして連絡を寄越すことはない。だから御幸も名前関連のことだろうと身構えておくことはできたが、あまり良い話ではないのだろうとなんとなく思う。

 名前からではなく倉持からの連絡で、一分一秒を争うような緊急性がなくて、喜ばしい話題ではないといったら──男関係のことしか思い浮かばない。

 だから、このあとの倉持の言葉にもピンときてしまった。
 
 
「御幸お前、どこまで知ってる?」
「えー⋯⋯なに、やっぱアイツ⋯⋯真田のヤツ、名前にまだ気ありそう?」 
「⋯⋯なんだ、知ってんのか。ならいーや、じゃあな」
「え? そんだけ?」
「そんだけ。じゃあな」
「こらこら、待てよ」


 呆れた御幸の声に、更に呆れた倉持の声が「何だよ」と渋々答える。何だよはこっちの台詞だ。一体何だってんだ、淡白過ぎんだろ。


「なんかもっとあるだろ、どんな経緯でお前が気付いたのかとか、真田の様子とかさぁ」
「聞きてぇの?」
「え? うん」
「キショいな」
「何でだよ」


 こんな会話であるにも関わらず、懐かしさを感じ、口元に笑みが滲んでしまうのはなぜだろう。名前も、倉持や沢村に会って楽しかっただろうか。


「まぁいいや、粘っても教えてくんなさそうだし。じゃあ別のこと聞くけどさ、お前──なんで俺に知らせてくれたの?」


 刹那、倉持はぴたりと動きを止めた。

 御幸の言葉を反芻する。「なんで」、か。確かに何故だろう。考えていなかった。口を開かぬまま、思考を巡らす。

 思えば朝、名前に問うてしまったことからして余計なお世話だったのだ。なのに更に御幸にまで要らぬ世話を焼いている。自分の行動が反射的過ぎて閉口する。

 何故だろう。

 壊れる二人を、見たくないからだろうか。

 ──いや、少し違うか。
 
 真田の気持ちを御幸も知っていて、手を尽くして、それでも名前の心の変化があったのならそれは仕方がない。生きていれば変わりゆくものなど数多ある。心のように目に見えぬものならなおのこと。
 
 ただ、何も知らず、気付いた時には名前はいなくなっていた、そんな未来をきっと、倉持が見たくないのだ。その結末しか選べない状況に置かれてしまう御幸を許せなさそうだから、せめて精々足掻きやがれ、と。こうして話をしている──のかもしれない。

 自分でも把握しかねる身勝手な想いに溜め息が漏れる。どうやら自分で思っていたよりも、倉持は二人の姿が気に入っていたらしい。

 
「⋯⋯理由なんて何だっていーだろ。まぁ一応牽制はしといてやるけどな。効果はなさそうだぜ」
「心配してくれてんだ?」
「相変わらず腹立つヤローだな」
「はっはっは、おかげさまで」
「うっせ。今度こそじゃあな」


 恐ろしい速度でぷっつりと切れた通話。取り残された御幸は呆気にとられ、束の間耳に携帯を当てたまま無言で宙を見つめる。名前との電話の切れ方の違いに笑ってしまう。名前はいつも、やわらかい切り方をしてくれるから。


「はー⋯⋯」


 携帯を握り締めたまま、ベッドにどっさりと倒れ込む。天井の白色無地の壁紙を意味もなく凝視していた。
 
 いつか起こると思っていた。

 御幸が好きになった名前は、必ずほかの誰かの目にも留まる。名前が誰かから好意を寄せられることは覚悟していたつもりだった。覚悟したうえで背を押した。しかしいざ現実になってみると、やはり面白くない。非常に面白くない。

 名前は常日頃から不安になる必要などないほどの愛情表現をしてくれる。自負だってあった。

 それでも襲い来る焦燥、不安、嫉妬。容易く心を掻き乱される。負のエネルギーの持つ力の大きさに唸りたくなる。野球に纏わることであれば対処できるのに。心のこととなると、名前のこととなると、どうにも制御ができない。

 御幸には、ひたむきに名前と向き合うしか方法はない。もし名前の気が変わる時が来てしまった時にも、一片の後悔も残らないように。

 わかっているのに。
 胸がざわついて煩くて仕方がない。


「ってか真田のヤツやりやがったな。彼女いるっつーの嘘か⋯⋯?」


 であれば名前共々まんまと謀られたことになる。いや、春には本当に彼女がいた──或いは現在進行系で存在している──のかもしれない。真相は分からないが、とにかく曲者であることだけははっきりとしている。

 何度目か分からぬおおきな溜め息が、一人きりの部屋に落ちていった。

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