麗らかな日だった。
バタンと重たい音を立てて扉を閉めた小さな引越トラックを見送る名前の切ったばかりの前髪を、春の風が捲っていく。花壇のチューリップが揃って揺れている。
「おっきい荷物ほとんどなかったから、早かったね」
振り返りながら告げた先では、父と母が「鳴が何でもかんでも買い揃えたからね」と肩を並べている。娘の巣立ちを見送るその表情を、なんと形容すればいいのか。言葉を探してみるものの、それらしいものは見つからない。
それもそうか、と思う。
この世界に産声を上げてからの十八年という歳月を思えば、親になったことのない名前にはとても言葉にできそうにない。できないが、しかしその気持ちを想うことはできる。それを享受していた日々が駆け巡る。だからこそ今名前の胸は、つきりつきりと痛いのだ。
そうして言葉を詰まらせる名前に、父が言う。少し眉を下げたどこか寂しげなその佇まいは、あんなに大きく見えていた父を少しだけ小さく見せた。
「名前が引退と同時に寮生活終えてこの家に戻ってきて、一緒に暮らしたのは半年足らずだったか⋯⋯もしかしたら、もう戻ることはないのかもな」
「そう⋯⋯なのかも、ね」
ぎこちなく返しながら、きっとそうなのだろうなと思う。
この門出は、部活のために寮生活を選んだ時とは訳が違う。きっと今回は家を出たまま大学を卒業して、就職して。帰省することは何度もあるだろうが、この家に「生活をするために帰って来る」ということは、きっとない。
──ここで、育ってきた。
見慣れた家を見上げると、己を己として育んできた日々が押し寄せるように蘇ってくる。賑やかで騒がしくて、愛に溢れた。自分の真ん中に立つ支柱となる日々だ。成長するにつれ名前の世界は広がり、それに伴って家で過ごす時間は減っていったが、ここはいつだって帰る場所だった。拠り所だった。何があっても信じて待っていてくれる家族がいたから。嬉しいことも苦しいことも、外の世界で身に降り掛かったすべてを抱えて帰って来ることができたのだ。
大好きだ。忘れはしない。どうかこれからも、皆の帰る場所であってほしい。
「今までありがとう。わたしこの家も、家族も、ほんとに大好き! 行ってきます!」
「うん。行ってらっしゃい」
毎日聞いていた。行ってらっしゃい。背を押しつつも守ってくれた言葉だ。気をつけてね。頑張ってね。頑張りすぎなくてもいいんだよ。帰っておいでね。たくさんの心を内包して送り出してくれた言葉が、今日も名前の背を押してくれた。
◇
「うっわあ⋯⋯」
空を占めるように聳える高層マンションを見上げる。見上げすぎてひっくり返ってしまいそうだ。高い建築物の隙間を抜けた強い風が少し肌寒い。
「すごい⋯⋯ほんとにここ⋯⋯? わたしここに住むの? 本当は向こうのあのアパートだったりしない?」
「するわけないでしょ。どう? 見た目は気に入った?」
鳴が得意気に胸を張る。たった一年で厚みを増した体躯には、今年の誕生日に名前が贈ったトレーナーが着られている。
これまでタイミングが合わず、名前はまだ新居を実際に見たことがなかった。外観、内装、そして見取り図は写真等で見ていたが、実物を目の前にすると圧倒されてしまう。
「すっごく素敵⋯⋯だけど、身の丈に合わなすぎて萎縮しちゃう」
「なんで?」
「なんでって⋯⋯さてはお兄ちゃん、この一年で一般人の感覚忘れちゃったんでしょ」
「何言ってんの、俺が一般人だったことはない」
「ふふ」
「ほら、変なこと言ってないで。こっちだよ」
手招く鳴に案内され、いくつかのゲートを突破していく。遠い。部屋までの道のまあ遠いこと。それだけセキュリティがしっかりしているということなのだろうが、日頃から時間には余裕を持つよう努めていなければ、遅刻しかけた時なんかは扉の一枚くらいぶち破りたくなってしまいそうだ。
そうしてようやく部屋に辿り着いた時には、思わず「やっと着いた⋯⋯!」と両手を上げていた。
広い玄関に、まだお客さんのような気持ちで靴を並べる。見慣れぬここを出て、そしてここに帰って来るのだと思うと不思議な気がした。
「先に来てた荷物はそれっぽいとこに配置してみたけど、俺はあんま帰って来れないからさ、名前の住みやすいように調整していーからね。重たいものは俺がいる時に動かすから」
「わかった、ありがとうね」
「うん。そんなことよりさぁ」
各扉を手当たり次第に開けつつ中を物色している名前の目の前に、ずいっと鳴の身体が立ちはだかる。廊下だからなのか、それとも鳴が壁に肘をつき名前を半ば覆うような体勢をとっているからなのか、やけに圧迫感がある。「? どうしたの」と見上げると、そこには不機嫌そうに眉を寄せた鳴の顔があった。
「好きなの何でも買って良いって言ったし、ついでに俺の分も選んでもらってそこは感謝してんだけどさぁ」
「⋯⋯? うん」
「⋯⋯ベッドデカくない?」
「え⋯⋯⋯⋯そう?」
間に合っただろうか。一瞬よぎってしまった「うわ、やばい」の表情を取り繕ったにこやかな笑顔は、間に合っただろうか。内心どきどきしながら鳴の反応を窺う。
「一人でダブルもいらないだろ」
「え⋯⋯でもわたしね、自分で言うのもなんだけど寝相悪いし、広さを気にせずのびのびと寝られるのはパフォーマンスの向上に繋がるって売り場のお姉さんも言ってたよ」
「なんのパフォーマンスだよ」
「それはもちろん大学生活のだよ」
というのは嘘八百である。
ダブルベッドはもちろん、御幸が泊まってくれたときに一緒に寝られたらいいなぁという邪心が百パーセントを占めている。本音を言えばクイーン以上が理想だったのだが、それは流石に欲張りすぎ、且つ、買ってくれる鳴にも申し訳ない、且つ、絶対に邪な気持ちがバレてしまう。
ゆえにこれらを統合し妥協しての、ダブルである。
名前の苦し紛れの言い分に納得いかなさそうに「ふう〜ん」と訝しげな眼差しを送り続けてくる鳴に、名前は焦る。話題を、話題を変えなくては、と慌てて明るい声を出した。
「ね、そうだ、今夜はお引越しパーティーしようよ! 早速何か作ってみる──って言ってみたいところだけど、まだ何も片付いてないから⋯⋯ピザでも頼む? ね、ピザ! あっ、それともお寿司?! それとも外に食べに行く?!」
「あー、晩飯ね⋯⋯片付けもあるし何か頼むか」
「そだねそだね! 一緒に調べよ!」
未だ立ちはだかったままの鳴の袖をくいっと引き、真新しいソファ──これも名前の一存で選ばせてくれた──に強引に座らせる。間髪入れずに隣に腰を下ろし、スマホの画面を見せる。あーだこーだとメニューを見ている途中、「そういえば」と口にしてみた。
「ほんとは一也くんも誘ってたんだけど、都合つかなくて」
「アイツはまだファームだろ。人の引越し手伝ってる場合じゃないって」
画面から目を離すことなく冷たく言う鳴に、名前はむう、と唇を結ぶ。
「まだ、っていうよりお兄ちゃんが特別なんだよ」
「まーねー。だから、ってわけでもないけど、ほんとは食事管理も厳しくやってんだけどね。今日だけはいっか」
「え⋯⋯いいの?」
「うん。パーティーなんでしょ」
「⋯⋯ありがとう」
鳴はきっと気づいているんだろうな、と思う。家を離れ、センチメンタルになっている名前の心に。だからこうして、「今日くらいは」と同じ食事を摂ろうとしてくれている。
鳴のストイックさと心の強さを、名前は信頼している。だから鳴が大丈夫というのであれば、それは本当に大丈夫な時だ。駄目な時は仮に名前からどんなに頼み込もうとも、決して首を縦には振らない。
もしかしたらお兄ちゃんも、いつかの日に。今のわたしと同じ気持ちを味わったのかもしれないなぁ。
そんなことを考えながら、名前も「今日だけは」と鳴の優しさに甘えるのだった。