「な、何事⋯⋯?!」
着慣れないスーツに身を包み、慣れない通学路をきょろきょろと進み、期待と不安の入り混じる胸を持て余しつつ大学の門を潜ろうとした、その寸前のことだった。名前はぴたりと足を止め、目の前の光景を慄きながら眺めた。
人、人、そして人。
門から校舎までの道に、所狭しと人が集まっていた。ものすごい数だ。最早進むべき道がわからない。これは只事ではないと一歩後退り少し様子を見ていると、どうやら部活やサークルの勧誘らしいのだ。皆、手にはプリントを持っていて、新入生に片っ端から声をかけまくりそれを押し付けるように渡している。
名前より少し先に突入していった男子生徒がもみくちゃにされている姿を目の当たりにして、名前はもう一度慄いた。
「これを掻き分け進んで行けと⋯⋯?!」
入学初日から難関すぎる。生還できるのか。
二年前の初詣、同じような人混みでいとも容易く迷子になり多方面に迷惑をかけた記憶が蘇る。両脇を御幸と鳴が固めてくれていた状態でもダメだったのに、一体どうやって校舎まで辿り着けというのだろう。こんなの聞いてない。
飛び込む勇気が出ずにしばらく入口付近で足踏みする。しかしいくら待ったところで状況が変わるわけもない。他の入口も知らないし、一緒に入学した友達がいるわけでもなく、待っていたって助っ人は現れない。いつまでもこうしているわけにはいかない。
「大丈夫、大丈夫、街のティッシュ配りと同じと思えば⋯⋯!」
名前は意を決してその渦中へと足を踏み入れた。
──途端、四方八方からしっちゃかめっちゃかに声が飛んでくる。一瞬にしてスクランブル交差点のど真ん中に放り込まれた気分だった。
「うちのサークルよろしくねー! 楽しいよー!」
「高校時代は何かやってた? 未経験でも大丈夫だよ!」
「一回遊びに来るだけでいいからさ!」
「君みたいな子に入って欲しいんだ〜!」
「取り敢えず連絡先だけでも教えてよー!」
初対面なのに“君みたいな子”なわけあるかーい、と突っ込む暇もなく、ただただ人波に流され押し出されるままによろよろ進み、そこら中からかけられる言葉に「えっ」「あっ、はい」「ひぃ」「うわ」「ありがとうございます⋯⋯?」などと辛うじて返す。
未だ嘗てこれほどのキャッチの嵐に遭遇したことはない。おそらく各団体きっての陽キャたちがこぞって駆り出されているのだろう。すごいコミュ力、というかすごいパワーで、げっそりする暇さえ与えられない。
そして気づけば両手には溢れんばかりに押し付けられたチラシ、チラシ、そしてチラシ。新歓の予定や連絡先、活動内容等が書かれたチラシが山積みになっていた。一体何団体あるんだ。量が多すぎる。もみくちゃ過ぎて、ここに至るまでに野球部がいたかどうかさえもわからない。
だからようやく出口らしきところが見えた時には、心底安堵したものだった。ぼろぼろになった髪を押さえつけ、これが大学生活の洗礼か、と一周回って妙な高揚感を抱いていた、そんな時だ。
聞き覚えのある懐かしい声が、名前を呼んだ。
「あっれー、名前じゃん!」
「え⋯⋯うわ! 真田さん?!」
真田俊平、その人だった。
一年半振りになるだろうか。真田にとって最後の夏の大会。敗北した彼の背中を見送ったのが、最後だと思う。野球を続けていればどこかで目にすることはあると思っていたが、まさかこんなところで再会することになるなんて。
真田とは、色々なことがあったから。
複雑な気持ちで見上げると、あの頃より大人びた真田がからりと笑っていた。
「はは、うわって何だよ。久々の再会なのにひっでーな。つーかぼろっぼろじゃん、あの人混みにやられたのか? はははっ、変わってねぇなあ」
恐らく真田の脳裏にも浮かんでいるのだろう。二年前の初詣の時のことが。変わってないと言われたことが少し悔しくて、「⋯⋯笑わないでください」と口を曲げてみせるが、真田には一向に響いた様子はない。
「なに、お前一般でここ入ったの? 阿呆そうなのにすげぇじゃん」
「阿呆って⋯⋯わたしだってやればできる子ですもん⋯⋯」
「まぁ実際に合格してるわけだしな。ちなみに俺は野球推薦」
「あ、そうですよね、わかります」
「おいどういう意味だよ」
「そのままの意味ですけれども!」
阿呆と言われた腹いせに喧嘩腰で返事をしながら、考える。
野球推薦、ということは。真田がいる、ということは。野球部は──ナシだな。そう思った刹那のことだ。
「ってこんな喧嘩してる場合じゃねぇや。名前、ウチのマネやんだろ? 入学式の後にさ──」
「え?」
きっと「やらない」という意を含んだ声音をしていたのだと思う。それを聞いた真田は目を丸々と開き、心底驚いているようだった。
「え、やんねぇの? お前が?!」
「えっと⋯⋯」
「⋯⋯あ! あー、もしかしなくても俺がいるからか。まだ気にしてんだろ」
「う⋯⋯その⋯⋯」
素直に頷いてしまうのもなんだか気が引けて、しどろもどろに俯く名前の額を、真田の人差し指がぴんと弾く。
「あのなぁ、いつの話だよ、一年半経ってんだぜ? 俺だって彼女の一人や二人いるっつーの」
「そ⋯⋯そっか、そうですよね! すみません、わたし失礼なこと⋯⋯」
当然だ。当然のことだ。それなのに。
いつまでも好かれていると思っていた自分が恥ずかしくなり、名前は顔を真赤にして俯く。自惚れも大概だ。本当に恥ずかしい。真田の顔を見ることができない。
だから、俯いた名前のつむじを真田がどんな表情で見下ろしているのか、名前は気づくことができなかった。
「てかアイツはどーしてんの? その感じだとまだ続いてんだ?」
「はっ!!!!」
真田から出た「アイツ」の言葉に、名前の伏せっていた顔は弾かれたように上がる。焦りが顕だ。
「さっ、真田さん、そのこと、絶対、絶対に内緒でお願いします!」
「うん?」
首を傾げつつも聞く姿勢を示してくれた真田に、名前は周囲に聞こえぬよう極々小声で呟く。
「一也くんはまだ二年目だけど、ファンならみんな知ってるし⋯⋯面倒事起こして迷惑は絶対にかけたくない、です。わたしのことならどんなに虐めてもいいので! お願いします⋯⋯!」
「別に虐めてるんじゃねぇよ、おちょくってるだけで」
いつもの調子で揶揄った言葉で、真田は本当に言いたかった言葉を隠した。
──そうか、大変だな。関係隠さなきゃいけないなんてな。
その言葉はとても本人にはぶつけられなくて、「わかったぜ。これでも一緒に甲子園獲り合った仲だ、他言はしねぇさ」と頷くに留める。
「ほっ、ほんとですか」
「ああ。俺、約束は守るタイプだから」
「え⋯⋯そう⋯⋯なんですか⋯⋯?」
「はは、俺って信用ねぇー」
「ふふ」
少し笑ってから、表情を締め深々とお辞儀をして礼を言う名前のつむじをまた、真田の無言の視線がなぞっていた。