入学式。紅白幕の垂れるホール。見知った顔は一人もいない。誰と何をどのように話し始めようか。気の合う友達はできるだろうか。そんな不安と向き合っていてもいい頃、名前はずっと別のことを考えていた。
思うのだ。
高校時代あんなに野球に打ち込めたのは、そこに御幸がいたからだ、と。いつだって御幸を追いかけて。それがすべての動機で、原動力だった。「御幸のチーム」から「自分のチーム」へ。いつの間にか意識は変わっていったが、それもやはり、御幸がいてくれたからだと思う。
新しいこの場所で、自分はまた同じように打ち込めるだろうか。御幸もいない。御幸と同じ時を過ごした選手もいない。文字通りまっさらな状態から始める関係だ。ここで本気でやれるのだろうか。
少し、怖いのだ。
もう知ってしまったから。青道で過ごした日々が、名前の中で理想のようなものとして形を成してしまっている。本気で甲子園を目指し、朝から晩まで野球に浸る。そんな高校野球とは違うことは理解しているつもりだ。それでも、自分の熱量とパフォーマンスが青道時代の自分に到底及ばず落胆する、そんな未来が来てしまうことが怖いのだ。
それならば一思いに入部を辞めてしまえばいいのだが、それでも迷ってしまうのは、「もう一度」と思ってしまうからなのだと思う。
もう一度。もう一度あの興奮を。緊張を。苦しさを。歓喜を。応援するだけではなく、自分の身を投じていなければ味わえないあの痺れを、もう一度だけ。
気付けば硬く拳を握っていた。登壇し式辞を読んでいた学長はいつの間にかいなくなっており、代わりに新入生代表と思しき人物が立っている。
名前は静かに深い息を吐いた。
──一也くんの、声が聞きたいな。
無性に思う。入学式なんて抜け出して。今すぐ御幸に会いに行きたい。話を聞いてもらいたい。こんがらがって纏まらない頭の中を解くようにして。
そんな叶わぬことを思いながら、入学式はいつの間にか終りを迎えた。
夜も更けた頃だった。
まだ完全には慣れぬ新居で慣れぬ自炊をし、入学式の疲れを浴室で洗い流し、鳴がいなければだだっ広く感じるリビングで御幸に電話をかけるか迷い、スマホを片手に部屋の中をうろうろと無駄に三周もした、そんな時だった。
マナーモードのままだったスマホが小刻みに震える。こんな時間に電話をかけてくる相手など、今の名前には家族か御幸しかいない。画面を確認して、すぐに通話ボタンを押す。
「もしもーし、こんばんは」
「うん。何かあれだな、おはようは何も考えないで言えんのに、こんばんはには咄嗟に返せねぇのって何なんだろうな」
「ふふ」
期待通り、電話をくれたのは御幸だった。刹那、嬉しさよりも安堵が勝った。日中、知らない場所で知らない人に囲まれていたから。御幸の声に酷く安堵している自分がいる。
「入学式お疲れ。どーだった?」
「うん、ありがとう。えーっと、あの⋯⋯」
「ん?」
「その⋯⋯何から話したものかって感じなんだけど⋯⋯あのね、真田さんがいたの」
「は⋯⋯薬師の?」
「うん、部活勧誘で会って⋯⋯野球推薦で入ってたんだって」
「──ふうん」
そう呟いた御幸の声に、何とも言えない色が混ざる。名前は少し緊張した。御幸が卒業してからの一年間、幸いにも表立った男女関係の拗れは起こらなかった。名前は部活と受験に必死であったし、御幸もプロ生活に懸命だった。会えぬ日々に不安はいくらでも抱えたが、実際に他者の影を感じることはなかった。
故にこの緊張感──味わいたいものではないが──は久しぶりである。
固唾を呑んで御幸の言葉を待つこと数秒、御幸は溜め息とともにこう言った。
「⋯⋯まぁなんつーか、ここまでくるとそういう巡り合わせなんだろうな。何回クラス替えしても同じクラスになるヤツみたいな」
「え⋯⋯あ、わたしいたよ、小中あわせて九年間同じクラスだった子。最後のクラス替えなんて『どうせ今回も一緒だよね』ってお互い思ってたもん」
「まぁ相手が真田じゃ嬉しくはねぇけどな。んで?」
「えっと⋯⋯マネやるんだろ、って聞かれて、その瞬間ね、『真田さんがいるならやらないな』って思ったの。そしたらそれが顔に出てたみたいで、『何年経ったと思ってんだよ。彼女の一人や二人や三人いるっつーの』って言われた」
「ああ、それで何か元気なかったのか」
「⋯⋯元気なかった?」
「うん」
御幸の返事を聞きながら、名前は思い出していた。以前沢村と話していた時のことだ。『一也くんさ、雰囲気とかから相手の心情感じるの、何だか鋭くなったよねぇ』と、そんな話題になったことがあった。御幸の最後の夏だっただろうか。その時沢村は、何言ってんだと言いたげな顔で『いや、そのテレパシー的なの、苗字と投げてる投手限定だからな。普段のスキルとしては全然だって。むしろ欠けてるっつーかさ』とやれやれと首を振ったのだ。意外だった名前が『? 前と変わってないってこと?』と聞くと、『少なくとも俺には。あの人は対人スキルを野球の神様に奪われちまってんだよ⋯⋯チクショウ果てしねぇ⋯⋯』と言って、眉を寄せどこか遠くを見ていたのを覚えている。
どうやら限られた場面でしか発揮されないらしい御幸のそのスキルに苦笑し、名前は続ける。
「自意識過剰だったのがすごい恥ずかしくて⋯⋯わたし何様なんだろうなって」
「そーか? 自意識過剰っつーより正当防衛だろ。過去のアイツが蒔いた種だよ。それに、ちゃんと防衛体制取れてて俺としては感心してるけど」
「な、なんて都合の良いポジティブ変換を」
「ま、ヘコむだけ時間の無駄だってことだな」
あっさりとそう言ってのけてから、御幸は腑に落ちたような声を出した。
「でもそうか、真田のこともあって余計迷ってんのか」
「そう⋯⋯わかんなくなっちゃって。わたしはどんなふうに野球と関わっていたいんだろうなっていうのが。自分のことなのに、しかも野球のことなのに、わかんなくなっちゃった」
こんなことで悩む日が来るなんて、思わなかった。
悩むのも、迷うのも、苦しい。苦しいことだ。いっそのこと考えることをやめてしまって、御幸と鳴だけを見ていたい。そんなことさえ思う。名前の中で決して揺らがぬ存在である二人を。揺らがぬ気持ちで。
しかしそれにどこか後ろめたさを覚えるのだ。
そんなふうに、まるで自分の問題から逃げるようにして想うことの許される二人ではないからだろうか。
不甲斐なくて口を噤む名前に、「まず大前提だけどさ」と前置きして、御幸は話し始めた。
「俺は知ってるぜ。名前が俺と鳴の野球を何よりも一番大切にしてくれてること。ずっと昔から。ちゃんと、知ってる」
「⋯⋯うん」
「けどさ、青道での三年間ってのは、それとはまた違っただろ。自分のチームがあって、自分の力がチームに還元されていく感じ。直接関わってなきゃ得られねぇ感覚。その喜びを知った名前も、俺は見てきた」
目を閉じる。今でもすぐに眼裏に浮かぶ。あの日々のかけがえのなさ。胸が高鳴る高揚。
「その場所に学生として身を置ける限られた期間は、名前ならあと四年か。もちろん甲子園目指してた青道とは違うし、高校生とも違う。けどどれも野球だ。名前が好きな野球には違いねぇ」
「⋯⋯うん」
「あとは、シンプルに勿体ねぇと思うかな。青道で得たものを、このまま眠らせとくのがさ」