春に攫わる


 翌日の放課後。学部も学年も異なる棟の講義室を緊張しながら覗いた名前を、真田が出迎えた。
 

「お、来ると思ってたぜ」
「⋯⋯」


 真田の顔を見た瞬間、名前は悔しい心地に見舞われ唇を結んでいた。まるでお見通しだったとでも言いたげな表情が何だか悔しい。 


「ハハッ、なんだよその顔。そんな顔したってさ、名前が野球部入らないわけねぇじゃん」
「でも、これでもすごく真剣に悩んだんです⋯⋯」
「うん。でも結局入るんだろ」


 手に持っていた入部届を指差し、「部長んとこ一緒に行こうぜ。ついでに色々案内してやるよ」と真田はくいっと顎を動かした。

 まだ知らない場所ばかりの構内を案内してもらいながら歩く。小中高とは随分と異なる学舎を興味津々に見回していると、真田が「そういやさ、」と口にした。
 

「アイツは反対しなかったんだ? 入部すること」
「⋯⋯わたし、学校とか部活では絶対に話さないって決めたんです。どこからどう漏れるかわからないから。だから“アイツ”って誰のことか⋯⋯わかりません」


 声を落として呟いた名前の静かな瞳を、真田がじっと見下ろす。少しの沈黙が流れて。真剣な声が答える。

  
「徹底すんだな。わかった。御幸のことも、成宮との関係も、俺からは誰にも言わねぇから」
「ありがとうございます、本当に。⋯⋯まぁでも、お兄ちゃんはそのうち勝手に乗り込んできそうな気もするんですけど」
「? なんで?」
「な、なんで⋯⋯? わたしも不思議ですけど、そういう人だからとしか⋯⋯?」


 自分で言っておきながら首を傾げる名前に、真田が笑う。

 
「よくわかんねぇけど、成宮が来たら大騒ぎになることだけは確かだな」


 その時が来たことを想像でもしたのか、真田は楽しそうに歩を進めていく。そして校舎の裏手から外に出て、少しだけ歩いた時だ。建物が捌けて一気に視界が開けて。

 ──ざあ、と風が吹き付ける。

  
「着いたぜ。ここが俺らのグラウンド。青道ほど立派で充実した設備ではねぇんだろうけど、結構愛着湧くもんだぜ」
「──⋯⋯」


 誰もいない広いグラウンドを前に、名前は立ち尽くす。これまで様々なグラウンドを幾度も見てきたが、ここも同じだ。ここでも同じ、野球の匂いがする。胸がざわりと騒ぎ出す。
 
 ああ、──いいな。
 
 やっぱり、この場所はいい。  

 空気を目一杯吸い込む。目を閉じると青道の野球の音が蘇ってきて、慌てて瞼を持ち上げる。ここではここの野球をすると決めた。過去を懐かしく、そして恋しく思う時が来ても、決して心の外に出してはいけない。

 決意を新たにグラウンドを見つめる名前に、真田が言う。
 

「あ、そーだ、来週新人歓迎会やるんだわ。予定送るから連絡先教えて」
「歓迎会?! 大学生っぽい!」
「はは、初々しいな。けどあんま浮かれてはしゃぎ過ぎんなよ。スタートしくじるヤツ結構いるからな」
「はい! お酒はハタチになってから!」
「そーいうことじゃねぇんだけどな。それはしくじるとか以前の問題だろ。本当に大丈夫かよ? 心配だわー」


 呆れた眼差しを向けてから、真田は爪先の向きを後ろへと変えた。


「そろそろ部室行こうぜ、部長含めみんな集まって来る頃だから」
「あ、はい!」


 踵を返した名前の背後、誰もいないマウンドを一陣の風が攫っていった。

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