春に攫わる


 鳴が自宅に帰ってくるというこの日、名前は鳴を待ち構えていた。鳴の帰宅は遅い。デーゲームでもなければ仕方のないことなのだが、身体が資本なのに、と思わずにはいられない。

 そわそわと落ち着かず、意味もなくスマホを触っては置くことを何度か繰り返した時だ。
 
 玄関のほうで電子音。鍵が開いた音だ。次いで重たい扉が開き、ひとりの足音と共に閉まる。名前はリビングの扉を抜け、小走りで玄関まで向かった。


「おかえりお兄ちゃん!」
「あれ、起きてたんだ。ただいま」
「お疲れ様。惜しかったねぇ」
「観てたの?」
「もちろん! 今は動画配信ツールがたくさんあって何よりです」


 勝てた試合だったよね、と悔しそうにしながら洗面所に入っていく鳴を見送って、名前は台所へと向かう。
 
 まだ球団の寮で生活していた頃、鳴が言っていたことがあるのだ。試合後は寮やホテルで遅い夕食を食べることがほとんどで、遍く栄養士に管理されたメニューなのだと。

 正しく食べて、正しくトレーニングをする。そのことの重要さはよく知っているつもりだ。だからここに越すことが決まった時、名前から願い出た。

 わたしにご飯作らせて、と。

 全部、鳴のおかげなのだ。
 大学近くのこんな豪華なマンションに住めるのも、家具から日用品から何不自由なく過ごさせてもらえるのも、全部鳴のおかげだ。しかしまだ学生の名前にできることは少ない。だからせめて。


「最初からプロみたく上手には作れないけど⋯⋯だからもしかしたら、お礼っていうより寧ろ迷惑になっちゃうのかもしれないけど、でも、」


 そう言い淀んだ名前の靄を晴らそうとでもするかのように、鳴はきっぱりと言った。
 
 
「じゃあ頼むね。でも義務みたいには思わないでよ。作ってもらえたらそれは超助かるし嬉しいけど、便利な時代だから自分で何とでも出来るからさ。名前は名前の生活をちゃんとしてよね」
「うん。用意できない時は連絡入れておくことにするね。作っておいて先に寝たりとかもするかもしれないし。ありがとうね」
「何で俺がお礼言われんの?」
「ふふ」

 
 という経緯があったので、大学から帰宅後の名前はレシピサイトとのにらめっこに勤しんでいた。高タンパク低脂質で、かつ一日の疲れを食で癒せるような。メニューを考える時点で非常に悩んだ。食で身体を支えることの大変さを痛感したのだ。
 
 それでも見様見真似でかたちにしたそれらは、自分で言うのもなんだが意外にも様になっていた。

 温め直して最後の仕上げをした食事をテーブルに並べる。緊張する。味見の段階ではそんなに悪くはなかったが、鳴はどのような反応をするだろうか。

 軽く身支度を整えた鳴が食卓につき、丁寧な「いただきます」、そして箸を持って──と一挙一動を食い入るように見つめていると、鳴が呆れた様子で手を止める。


「ちょっと。そんなに見られると食べにくいんだけど」
「あ、お構いなく」
「気になるんだっての」
「わたしも気になるんだもん!」


 これまで他人に振る舞ったものといえば、握り続けて超絶上達したおにぎりと、年一回のバレンタインで作ったチョコレートくらいだ。受験が終わってからは毎日台所に立ち母から料理の基礎を教えてもらっていたが、一朝一夕で上達するものでもない。成長には他者からのフィードバックは大切だ。今後に活かすためにも、食べてもらった時の反応は直に見ておきたい。

 そう意気込む名前を見て、鳴は観念したように箸を口に運ぶ。

 直後、目を丸々と開き、驚愕と言っても差し支えない表情で名前を見た。


「え、結構美味いんだけど」
「ちょっと、『え』ってなあに?!」
「いやだって、名前がマトモな料理作んの初めて見たもん。中学の時とかさ、調理実習でやったからっつって家でオムレツ作って丸焦げにしてたじゃん」
「うぐ」


 言い返す言葉もない。
 確かに、そんなこともあった。というか思い返せば似たようなことはたくさんある。


「だから普通に美味くてびっくり」 
「なんか⋯⋯嬉しいのに素直に喜べない⋯⋯」
「なんで? 喜んでおきなよ」


 そう言って笑う鳴はとても生き生きとしている。妹を揶揄って楽しむなんていいご趣味だ。と、唇を曲げようとしたところで、日中のことを思い出し「そういえばね」と口を開く。

 斯々然々。
 
 
「──ってわけで、野球部に入ることになったので、来週歓迎会に行ってきます!」


 入学式からの一連の流れを話し終えた頃には、鳴は食事を終え、リビングのソファに移動していた。煌々と灯っていた明かりは睡眠導入のため徐々に落とされている。おおきなソファの背凭れに片肘を乗せた鳴は、もう一方の端に腰を下ろしていた名前を見た。

 
「大学野球すんだ?」
「うん。やってみることにしたの」
「ふーん」
 

 興味があるのかないのか。なんとも言えない「ふーん」を落として、鳴は続ける。
 
 
「いーんじゃない。色んな野球に触れるのも楽しいだろうしね」


 三年前、青道の野球部に入ると伝えた時とは反応が違う。どうやらその時に越えた壁らしい。と、ほっとしたのも束の間のことだった。
 

「で、歓迎会っていつ? 店は? 何時から何時まで? ちゃんと他に女子いんの?」


 突如始まった怒涛の質問に、名前は苦笑する。予想はしていた。していたが、それを上回る問いっぷりだ。
 
 わかっている。名前を心配する一心でのことだ。それに鳴は“禁止の強制”は絶対にしない。だから、答えたいし応えたいと思う。

 真田から送られてきた予定を鳴に伝える。鳴は自分のスケジュールを確認して「ちょうどデーゲームの日か」と呟き、名前に向き直った。
 

「その時間ならもう試合終わってると思うから、連絡して。店に着いたら電話、帰る時電話、帰り一人になる時電話、遅くなる時も電話、わかった?」
「⋯⋯電話、ちょっと多いね?」


 眉を下げ首を傾げてみせると、鳴はやれやれと首を左右に振って説教じみた口調で言う。

 
「あのね名前。こーいうのは最初が肝心なわけ。名前には家で帰りを待ってる人間がいるんだって意識を、周りの人間に植え付けとかなきゃダメ」
「周りに? わたしにじゃなくて?」


 てっきり、名前が羽目を外し過ぎたり夜遊びを覚えたり、そういうことを防ぐためなのだと思ったのだが。


「名前が自分から進んでそういうことしないってことくらい信頼してるっての。それなのに名前に植え付けてどーすんのさ。そうじゃなくて、名前の優しさにつけ込んで誑かしたりする輩が絶対湧いてくんの。どーせ断り切れないとか思ってさ」
「ふふ、絶対?」
「そう。俺にはその未来が見える」
「あは、何それ」
「だからそいつらに、俺が先に牽制しとくんだよ。こんなめんどい人間が傍にいるのって、そいつらにとっても超煩わしいからさ」
「めんどいって自覚はあったんだ⋯⋯」


 思わず呟く。むっすりとした鳴に「聞こえてるけど」と言われ、謝罪するように肩を竦める。 

 
「ごめんね、本当は面倒だなんてちっとも思ってないよ。いつも心配してくれてありがと、お兄ちゃん」 
「⋯⋯ま、これは実家出て暮らすこと提案した兄としての責務だからね」
「ふふ、美談ふうに纏められちゃった」
「いーじゃん美談なんだから。つーかお前は早く寝ろ。ちゃんと寝て明日もちゃんと勉強してこい」
「はあい」


 早く行け、と手を振る鳴に笑って、寝室に向かう。昨晩御幸は「超束縛してやるからな」と言ったが、鳴のおかげで名前の束縛耐性は結構高めなのである。

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