春に攫わる


「野球部入ってくれてありがとう! 乾杯〜〜!」


 そんな声とグラスのぶつかる音で始まった歓迎会。大学生が行きやすい低価格帯のチェーン店の宴会用の部屋だった。新入部員は各テーブルにバラけるように配置され、周りを上級生が囲んでいる。


「へぇ、青道で? すっげー」
「だから真田と知り合いなんだよな?」
「あぁ、真田って薬師だったもんな」
「そういや彼氏は? いんの?」
「いるんじゃない? さっき電話してたもんね?」
「電話って?」
「『ちゃんとお店着いたよ』って話してるの聞こえたけど」
「え、彼氏に逐一報告しなきゃなんねぇの? 重っ! 大丈夫それ?!」


 名前は苦笑していた。
 質問攻めも然ることながら、会話のキャッチボールが速すぎるのだ。何度も口を挟もうとトライしては、怒涛の会話に撃沈する。それを幾度も繰り返す。それならば、と静観を決め込んだ矢先、今度は手のひらを返したようにテーブル全員が名前の返答を待つ素振りを見せたため、慌てて口を開いた。
 
 
「あ、その電話は家族で⋯⋯」
「家族?! 箱入り娘ってやつだ」
「いやー、でも青道で朝から晩まで年がら年中野球してたんでしょ? 箱入りではないんじゃない。親だって心配なんだよ、こういう飲み会も初めてだろうしさ」
「そんなもんかね。俺、家族にそんな連絡したことねぇなー」
「そりゃお前の家族も誰もお前みたいなゴリラの心配しないだろーさ。ねぇ?」


 どうして返答に困る話題に限って話を振ってくるのか。名前はさらに苦笑する。何と答えようか。逡巡した、その時だ。 
 
 
「先輩方、そのへんにしといてやって下さいよ。先輩方の勢い良すぎて名前ほとんど喋れてないじゃないスか」
「真田さん」


 グラスを片手に隣のテーブルから移動してきた真田を見上げ、ほっと息を吐く。その息と共に、強張っていた全身の力が抜ける感覚。まだ慣れぬ人の輪の中、緊張していたのだ。

 当然のように名前のテーブルに腰を下ろした真田に、話題が振られる。
 
 
「そーいや何で真田は『名前』って呼び捨てなわけ?」
「? そーいう仲だからですけど」
「え、詳しく聞かせて」
「え、嫌っす」
「何だって?」
「ハハハッ」


 終始こんな調子だった。
 途中、自己紹介や席移動もあったが、何だかんだ真田は名前の世話を焼いてくれていた。そのお陰もあって、一次会が終わる頃には多くの先輩たちと随分と打ち解けることができており、スムーズに二次会に移行することができた。

 賑やかで活き活きとした空気だ。

 この人たちとする野球は、どんな野球になるのだろう。そんな期待を抱きながら臨んでいた二次会も終盤に差し掛かった頃、──事件は起こった。

 すっかり出来上がった先輩が「おう飲んでるー?」と寄ってくる。「はあい、飲んでまーす」とノンアルカクテルの入ったグラスを見せると、何が楽しいのか先輩はけらけらと笑って、「ほんとだ、飲んでるね飲んでるねー」と背をばしばし叩いてきた。

 滑稽だな、と思う。
 
 酔った人間を傍から見ると、滑稽だ。
 父や姉が家で酒を飲むことはあったから、酔っ払いに初めて出会うわけではないし、アルコールで低下した前頭葉の機能はまぁこんなものなのだろうという認識もある。しかし改めて眼前にすると、本人にしかわからぬ愉悦をひとり味わっている様は、滑稽だった。

 二十歳になったら、たぶん、名前も酒を飲んでみるのだと思う。その時自分はどんなふうになるのだろうと思いを馳せていると、背に回っていた手に、今度は元気に肩を組まれる。

 ぞわりと、嫌悪感。
 

「ちょ⋯⋯っあの、」 
「カラオケ! 三次会はカラオケー! 一緒に行こうなー!」
 

 疚しさは感じない。しかし確かにぞわりと背を走った嫌悪感、そしてその力の強さと腕の重さに眉を寄せた、その時だった。

  
「はーい離して。軽々しく触んないでくれる? 健全な場じゃないなら今後飲み会一切来させないからね」


 聞き慣れた声だった。しかしこの場では決して聞くはずのない声だ。まさか。そんな。どうして。困惑しながら勢いよく振り返る。そこで捉えた人物は、耳が認識したその人そのものだった。
 
 
「な、おっ⋯⋯お兄ちゃん⋯⋯?!」


 目を丸くして見つめる先では、鳴が先輩の腕をひっぺがしているところだった。

 確かに。確かに、だ。
 
 二次会の場所も知らせたし、終わる予定時刻も伝えた。鳴のことだから、何も言わずに近場の駅に迎えに来ているくらいはあるかもなぁと心の準備もしていた。
 
 しかしまさか、この場に登場するなんて。そんな心の準備はしていない。


「なんで、ど、どうしたの」
「そろそろ終わる時間でしょ。暇だし迎えに来たんだよ。悪い?」
「悪⋯⋯くは、ない、けど、悪い悪くないの問題じゃなくて⋯⋯」


 どこからどう突っ込もうか。
 突っ込みどころが多すぎて言葉を失くした名前の隣では、暫く呆然としていた先輩が突如として自我を取り戻したかのように、「は⋯⋯? え、マジ? マジで?」と鳴を指差して騒ぎ始めた。


「成宮じゃん! 成宮鳴!!!」
「何こいつ。俺のこと勝手に呼び捨てにしないでくんない? つーか人のこと指差すなよ」


 いつになっても相変わらず偉そうな態度の鳴を横目に、名前は焦っていた。この騒ぎに、人が集まって来ていたのだ。「何?」「え、成宮鳴?」と、その波紋は瞬く間に広がっていく。皆野球をやっている人達なのだから、鳴のことを知っている人は多いだろう。

 しかし鳴はどこ吹く風。
 それらの声に一切耳を貸さず、マイペースに詰問を続けている。
 

「ねぇ、名前に酒飲ませたりしてないよね?」
「してないしてない! してないっス!」


 先輩──三年生だと言っていたから、現役生であれば年齢は鳴のひとつ上だ──は口調を迷走させながら、アルコールの回った頭で事態を懸命に処理しているようだった。そんな中ようやく思い至ったのか、今頃になって口をぽかりと開けて名前を見る。
 
 
「え⋯⋯つーかさっき『お兄ちゃん』って⋯⋯マジで?」
「あは、はは」


 空笑いが精一杯だった。
 こんなにすぐにバレる、というか鳴自らバラしにくるとは思ってもいなかった。ただただ苦笑しながらこくりと頷く。
 
 まぁ鳴とは清廉潔白な兄妹関係を築いているし、御幸との関係がバレることとは事情が違うから──と自分に言い聞かせていた、矢先のことだ。


「鳴ー、まだ?」


 名前は飛び上がった。この声こそ、この場では決して聞くはずのない声だ。

 嘘だ。だって。どうして。

 そんなことを考える頭を置いてけぼりにして、反射的に言葉が出る。

 
「かっ、一也くん?!?!」


 掠れた悲鳴のような声だった。
 今日一番の驚愕の眼差しを向ける名前に、御幸は「よぉ」と笑みを返す。久し振りだ。いつ以来だろう。相変わらずの笑顔だ。格好いい。眩しい。一也くん。

 ──一也くん。

 心がもう一度、彼を呼ぶ。
 何故ここに、とか。どうしよう、とか。考えなければならないことは多々あるのに、久方ぶりの邂逅に溢れる想いがそれを押し流していく。
 
 その流れに乗って思わず御幸に手を伸ばそうとした名前を、幸いにも周囲の声が留めた。


「うわっ、今度は御幸一也!!」
「何これどーなってんの」
「マジで本物?!!」


 瞬く間に伝播していく動揺。収拾などとっくに付かない状況だ。だがやはり鳴──のみならず御幸まで──はどこ吹く風。まるでそうするのが当然であるかのような堂々とした振る舞いで、さらりと告げる。


「そんじゃ、ちょうどお開きの頃だったみたいだし、もう遅いから名前は連れて帰るからね。これからも健全に頼むよー」
「ほら名前、帰んぞ」
「えっ、でも」


 いいのだろうか。この混沌とした状況で、しかも歓迎会の一応の主役の一人である名前が勝手に先に抜けるというのは流石に如何なものか。というかこっちの都合などお構いなしのこのプロ二人を誰かどうにかしてほしい。

 などと考え咄嗟に動けないでいると、背後から、声。

 
「いーよ、気にしないで。あとは俺が話しとくから」
「あ⋯⋯」


 真田だった。
 とうとう見兼ねたのだろう、近付いてきた真田は、「名前の言ってた通りほんとに乗り込んで来たのウケんだけど」と笑っている。

 その顔のまま名前を見て、鳴を見て、そして御幸を見て。

 刹那、御幸と真田双方が不敵な笑みを向け合う。まるでマウンドと打席で対峙でもしているかのようで、ぶつかる視線の間を一瞬、火花のような何かが走った気がして。

 とにかく何事かが勃発してしまいそうな嫌な気配を察知し、「ありがとうございます! あとのことはよろしく頼みます!」と半ばヤケに尻拭いを任せて、急いで席を立つ。
 
 そしてせめて挨拶だけは、と部員に向かって「騒ぎにしちゃってすみません。歓迎会、ありがとうございました」と言いかける名前の肩を、おおきな手が引き寄せる。


「ほーら、許可も出たんだし帰ろうぜ」
「⋯⋯っ」
 

 御幸だった。

 服越しに触れた御幸の感触に、すべてがどうでもよくなる。ああ、この体温だ。このぬくもりに、焦がれていた。
 
 途端に大人しくなった名前の肩を抱き、御幸は鳴のあとを追ってそのまま出口へと向かって行った。

 



 残されたのは、鳴が“お兄ちゃん”であるということだけを知った部員たちだった。

 彼らを包んでいたのは困惑ではなく、興奮だ。プロ野球選手と出会ったのだ。それも二人。都内で野球をしていたのなら少なくとも一度は耳にしたであろう選手。そして、同世代でプロ入りを果たした選手だ。そんな二人が新入部員である名前と濃厚な接点を持っているというのは、夢と希望が膨らむ話なのだ。

 今しがたの出来事に様々な憶測を加え盛り上がる混沌とした場を収めたのは、真田だったという。

 鳴と名前の関係。そして鳴と御幸の関係。そこから派生する名前と御幸の関係──もちろん名前にとっては“兄の友人”で、御幸にとっては“好敵手の妹”という関係であると留めて──を、話してくれた。

 それを聞いた部員たちは、あっさりと納得してくれたらしい。 
 

「いやー、まさか苗字が逐一電話してた家族ってのがあの成宮鳴とは⋯⋯」
「すっげぇシスコンなんだなー」 
「つーか苗字、御幸に肩抱かれながら帰ってったけどあれは成宮兄に咎められないのか⋯⋯?」
「昔から仲いいってんだからいいんじゃね? きっと妹みてぇなもんなんだろ」


 といった具合だ。
 
 後日この話を教えてくれた真田から、「二度とあんな尻拭いさせんじゃねーぞ。って、あの二人に言っとけ」とお小言を頂戴したのは言うまでもない。

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