流れる星の落つところ
悟は喋っていた。
「早く起きてよー、せっかく急いで帰ってきたのに。お土産まで買ってさぁ」
「仕方ないな、味落ちちゃうから僕が食べてあげる。感謝してよね」
「名前ー、この映画のこの体位、今度やってみない? オマエのイイトコにモロだと思うんだけど」
「ハァ〜〜〜つまんなーい。ねえ名前、おーきーてー」
たかだか数時間。
悟の部屋に移動してから過ぎた時間だ。その間に悟が名前に浴びせた言葉数は、実に千を超える。
こんなはた迷惑なことをされては名前も起きるに起きられない、というか起きたくないというものである。
尚も言葉を続ける悟が、ふと何かを思いついたように斜め上を見た。「そうじゃん、そうだった」と人差し指を立てる。
「眠れるお姫様には、王子様のキスってね」
次の瞬間にはちいさなリップ音。
悟の唇が、名前の唇を啄んだ音だった。
ひとつ。ふたつ。束の間様子を窺う。やはり動かぬ名前を見て、所詮は御伽話か、と。たまさか笑んだ悟の口から僅かに息が漏れ出た、その瞬間だった。
──ふる。
名前の睫毛が揺れる。
次いでゆっくりと動いた瞼に、悟は幾らか目を見開いた。
「──アハハ、ほんとに起きた」
何故だろう。
何故、こんなにも鳩尾が震える。硝子が治した。助かると言った。何も問題はないはずなのだ。問題はない、はずだったのに。
しかし悟の心に溢れたそれは紛れもなく──安堵だった。自覚しているより名前を案じていたのだと思い知らされる。
「おはよ、お姫様」
「──…?」
幾らか意思を持って悟をその目に映した名前が、ほんの数度だけ首を傾げた。
「どーしたの」
「…………」
「名前? 僕のことわかる?」
一向に言葉を発さず、力の抜けた瞳のままの名前に、一抹の不安がよぎる。
頭。脳。記憶。感情。
硝子に手出しできない箇所が、ダメージを負っていないと言い切れるか。
そんな憂心が、よぎる。
「……名前?」
気づけば名前の頬に手を添えていた。図らずとも眉根に力が入る。名前の名を呼んだ悟の声に、どこか詰問にも似た響きが僅少混ざる。
名前が瞬く。ゆっくりと唇が開いた。
「……あ、悟先輩か。顔近すぎて誰だかわかんなかった。……ねえ、顔近くない?」
「……………、も〜〜〜マジ勘弁、焦らせないでよ」
身構えてしまった。名前から問われてしまうのではないかと。「あなたは誰?」と。悟など知らないような顔で。
そんなことを想像してしまって、名前が死ぬのとどっちがマシだろうかなどと考えてしまった。
そんなのどちらも、──地獄だろうに。
悟は人生で恐らく最も大きな溜め息をついてみせた。名前が首を傾げる。
「なに、そんな溜め息ついて。どしたの」
「ハァ〜〜〜ホント憎たらしい。……まあいいけど、元気そうだし。気分どう?」
「いや、だから顔近……」
ぐい! むにゅ!
名前に頬を押され、悟の顔がいびつに歪む。「心配したのに酷い言われようだな、僕かわいそうー」と垂れた文句に、名前はようやく自分の状況を理解した。
「ああ、そっか、わたしあのまま飛んじゃったんだ」
「飛んだとかいうレベルじゃないよ、硝子がいなかったらアウトだった」
「ふふ、大丈夫だよ」
「……自分の状況見てから言いなよ」
名前は違和感のある頭部にゆっくり触れた。指先にやや弾力のある繊維布の感触。そこに硝子の優しい気配が残る。残穢に集中すると、かなりのダメージを負っていたのだとわかる。
「でもね、先輩」
「うん?」
「それでもやっぱり大丈夫だよ。わたし、死なないもん。死ななくなったの」
「なんで」
「だって悟先輩がオホシサマにお願いしてくれたじゃん」
悟は黒い布の向こうで、ぱちりと瞬いた。あのとき名前は、悟をロマンチストと揶揄い子どもだと笑った。屋根の上で。悟の腕の中で。
なのにこの口振りはどうだろう。まるでこの世の真理だとでも言うように、歴然たる事実であるかのように告げるこの口振りは。
釈然としない様子の悟に、名前も釈然としない面持ちで返す。
「先輩のお願い叶えなかったらさ、宇宙中のオホシサマ、先輩に殺されちゃうかもしれないじゃん。星たちも必死だよ」
「僕のことなんだと思ってんの」
「……天上天下唯我独尊?」
「アハ、馬鹿にしてるでしょ」
「ちょ、やめ、病み上がり、……あはは」
全身をこれでもかと擽られる。最初こそ抵抗していた名前だったが、終いには我慢しきれず、悟が満足するまでころころと笑い転げる羽目になった。