流れる星の落つところ


 そうして日が落ちて暫くしてから辿り着いたのが、ここだった。

 呪霊のじゅの字も見えぬ雪原に、樹氷となった木がぽつぽつと立つ。空に散らばる星々以外、明かりの届かぬ辺境だ。こんな場所に悟が赴かねばならぬような呪霊がいるとは到底思えなかった。

 
「ねえ、悟先輩」
「なあに、名前」
「呪いの気配なんてありません、これっぽっちも」
「うん、そうだね」


 つんざく冷気の中を、キィィンと静寂が渡った。
 
 ちいさな耳鳴りにも似たその音にひととき耳を傾けてから、鼻の頭を赤く染めた名前が悟を見上げる。


「……先輩、そろそろ本当のこと話さない? さすがにここまでくると、任務じゃないってわかっちゃうよ」


 任務でないどころか、最早ただの旅行と言っても過言ではない。思えばこの国に到着してからというもの、悟はサングラスを掛けていた。風姿からしてオフモードであったことに今更気づく。

 名前に隠したい何らかの目的があるのであろうが、こんな場所にまで来てしまえば、さすがに問わずにもいられない。

 というか普通に気になる。

 しかし問われた悟はといえば毛頭答えるつもりなどないようで、憎たらしいほど涼しい顔で笑っている。


「アハハ、今頃気づくとか名前も鈍いよね」
「…………」


 何も言い返せず、名前は口をへの字に曲げた。

 自分で認めたくないほどのお間抜けな凡ミスであるが、なんせ名前ははしゃいでいたのだ。この非日常に。

 致し方なしである。

 故にその感情の矛先は別へと向いた。


「……伊地知先輩まで迫真の演技すぎるんだけど」
「いや、伊地知はきっと今でも本当の任務だと思ってるよ」
「うわ……久々に見た伊地知先輩がやつれてたの、絶対悟先輩のせいだよ。優しくしてあげて」
「えー男に優しくしてどうすんだっつーの」
「えーじゃありません」


 名前と同様マフラーに口元を埋めた悟が、ふたりの間を駆ける冷気を遮るように身体を寄せた。

 悟の上腕と名前の肩が触れる。


「まあもうちょっと待ってなよ。多分そろそろだから」


 そう告げた悟が空を仰ぐ。その様子を見上げていた名前の目に、サングラスの隙間から覗いた碧眼が映る。碧の周りの睫毛さえ美しい。ひととき見惚れてから、名前もゆっくりと夜空へ顔を向ける。

 名前は息を詰めた。

 高専のあの場所より、遥かに宇宙に近い星空だ。隣で「すごいね」と呟きが落ちる。名前はこくりと頷いた。


「先輩、もしかしてこの景色見せようとしてく、れ──……」
 

 名前は口をぽかんと開け、目を見開いた。言葉を皆まで紡ぐことができなかった。

 漆黒に限りなく近い青と、散り散りな光。そこに──在るはずのない色彩が混ざる。それはゆらりと揺れるように現れ、次第に夜空をおおっていった。

 この世のものとは思えぬ、天国とも見紛うほどの美しさ。名前はただただ立ち尽くした。


「───……」


 幾層もの色彩を移ろわせ、かたちを変えながら天辺に揺らめく極光。キィィンと鳴っていた静寂が、光とともに揺れた。



 どのくらいそうしていただろう。
 不意に、「名前」と。名を呼ばれる。手袋を外した悟の親指が名前の涙袋をなぞった。


「?」
「涙。拭かないと凍るよ」
「……?」


 サングラスを外した瞳に覗き込まれ、名前はひとつ瞬く。対の目からもうひと粒が落ちたことを自覚し、はじめて泣いていたのだと知る。一方の涙も優しく拭われる。凍えた肌に、悟の指先はひどくあたたかかった。

 この美しさを言葉にしてしまえば、途端に陳腐になってしまいそうで。しかし心に留め置けるほどの美しさではなくて。

 その代わりに涙が、流れ落ちたのかもしれない。

 目の前のすべてが現実味を欠いていて、名前は「夢みたい」と呟いた。


「夢じゃないよ」
 頬にあった悟の指が、ほら現実でしょ、と言うようにふにふにと動いた。

「だってこんな奇跡みたいなことある?」
「あっただろ」
「あったけど」


 美しく燃えるような。狐火の。
 

「……先輩はなんでわかったの。オーロラが見えるって」
「なんとなくだよ。完全に運のそれだけど、でも、僕が来てるのに見れないなんてあり得ないでしょ」
「ふふ、意味わかんない」


 サク、と足元の雪が鳴る。笑んだ名前の背に、悟の胸板があたる。首に腕が回る。悟が後ろから名前を抱え込んだのだ。頭頂に悟の顎が乗るのを感じて、名前は首を反らす。


「先輩?」
「好きかなと思ってさ、こういうのも。流星群と違って日本じゃ滅多に見れないだろ」
「……うん」
「……でも寒いものは寒いから、さ、アレが消えるまでこうさせてて」
「……うん」


 言外にこの景色を見せるために連れてきてくれたのだと、そして極光が消えるまで、飽きるまで眺めていていいと伝えられ、名前の胸が切なく締まった。

 こんな奇跡の夜に。
 悟と、ふたりきり。

 願いのひとつくらい叶いそうな気がしてしまって、そしていつまでもその望みを捨てきれないでいる自分に気づいてしまって。名前はただ、悟の腕の中で、光が消えゆくまで空を見上げていた。


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