流れる星の落つところ


 微かに震える指先で、名前は左手を強く握った。後を追うように悟の大きな手のひらが名前の手背を包む。
 

「なんで、いまごろ……何言って……わたしずっと、」


 続く最適な言葉を、名前は探すことができなかった。好き、という言葉では片付けられない。

 あの日々を憂うつもりはないが、それでも決して、心底の幸福とは呼べぬ日々ではあった。
 この想いが届くことはないと思っていた。この想いを伝えることなどないと思っていた。悟から与えられる一時だけのまやかしの幸福を、一生大事に抱えていくつもりだった。

 その果てに呪いのような愛へと変貌した想いを、悟は知っているのだろうか。


「“なんで”かなんて、そんなの僕こそ聞きたいよ。僕ら十年以上何してたの、マジで阿呆らし」
「……え?」


 僕ら?
 十年以上?
 
 名前の気持ちを知っているかのような口ぶりに、より一層目を丸くする。


「ああ、名前の気持ちはこの間聞いたよ」
「は、誰から」
「名前から」


 悟が可笑しそうに肩を揺らす。
 だから酒はだめって言ったでしょ、と笑われ、七海と食事をした日に思い至る。あの日は途中から記憶がないのだ。

 名前は恐る恐る問うた。


「……わたし何て言ったの」
「それは僕だけのヒ・ミ・ツ」
「えっなんで」
「言ったって信じないじゃん、意地張り子なんだから」
「んぐ、そんなこと、ない、とは、言えないけど」
「アハ」


 誰がどう見ても十対〇で名前のせいなのだが、内容が内容なだけに素直に引き下がれない。渋る様子を見て、悟は名前の頭頂に顎を乗せた。
 

「では一つだけ問題でーす。僕は、名前の何でしょう」
「……それ、あの日わたしが言ったの? 先輩に?」
「そーだよ」
「嘘でしょ……」


 名前は項垂れた。
 悟が、名前の何であるか、だなんて。決まっている。他の答えなど在りはしない。それを悟に言ったというのか。墓まで持っていくつもりだった言葉を、本当に?

 諦観の境地だった。
 項垂れたまま、唇をひらく。
 

「そんなの、先輩はわたしの──」


 涙が、溢れてしまって。
 懸命に紡いだ言葉尻はしかし、震え、掠れ、濁った音と成り果てた。


「ほんと、なの、先輩は」
「本当以外でこんなこと言わないしこんなとこまで来ないしそもそも抱いたりするわけないだろ。どんだけニブチンだよ」
「だってあまりに突然で……それに十年だよ? そんな期間、ずっと……っわたし」
「あー、その阿呆らしい年月はさぁ、少し前に僕が乗り越えといたから。名前はそんな葛藤しなくていーよ、時間の無駄無駄」


 しれっとした言い草に、名前の目から落ちていた涙が束の間止まった。無論、呆れたからである。整理のつかない頭での必死の葛藤を、まさか時間の無駄と言われようとは。

 しかし、知っている。

 これが悟の優しさなのだ。
 十年の隙間。縺れ、すれ違った心の質量。それらはあまりにも重く、すべてを受容するまでに要する精神の摩耗は察するに余りある。それを名前に与えまいとしてくれている。

 そしてその行動が、悟が本気なのだということを、悟もこれほどの年月を想い続けてくれていたのだということを、より一層裏付けていた。


「……葛藤って幸不幸みたいに半分こできるものだっけ?」
「できるの。できなくてもやって。もーさー、まどろっこしくて嫌んなっちゃったって言ったでしょ。あーだこーだ言わないの。ほら返事は」
「へんじ……? なんだっけ」
「うっわ酷! 一世一代のプロポーズを!」
「あそっか、プロ、ポーズ……」


 しかしこの単語の破壊力ときたら。茈の比ではない。これが悟の究極の術なのではないか。ともすれば無量空処さえ超えうる。

 などと混乱甚だしい名前を、悟が背後からきつく抱きしめる。左薬指にやわらかな口づけが落とされた。


「ね、ほら早く。……名前」
 

 優しくいざなうように名を呼ばれた。

 口にしてしまっていいのだろうか。夢のように消えてしまったりしないだろうか。

 でも、もう。
 身に纏ったすべてをかなぐり捨てて。

 悟に縋ってしまいたい。


「……っ先輩」
「……うん」
「……──大好き。ずっと、いっしょに……っ」


 これが名前の願い。
 いつだって変わらない。

 あの日から。



 悟は名前の、世界のすべてだ。


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