孤独を噛んで
「ねーせんせ」
「ん?」
「縛りを解くのって、どうやるの?」
真希と手合わせをしている憂太、パンダと手合わせをしている棘を見ながら、名前は傍らの悟に問うた。芝生の上でちいさく膝を抱え座る姿を悟が一瞬見下ろし、すぐに視線を戻す。
高専に名前たちが入学して、八ヶ月が過ぎようとしていた。
「知ってるでしょ。遂げるか破るかしないと解けないよ。じゃないと誓約の意味がまるでない。どんなに力のある呪術師でも、呪霊でも、縛りは絶対だ」
「うん。だから先生に聞いたの」
悟の唇が一時、僅かに開く。呆気にとられたようにほんの一時開いてから、クク、と笑い声を漏らした。
「名前は嫌味がなくてかわいーね。恵なんかが同じ台詞言ったって、ただの悪口にしか聞こえないよ」
「誰? 恵」
「あれ、まだ会ったことなかったっけ。来年入学してくる、小憎たらしくて可愛げない名前の後輩だよ」
「恵、だから女の子? やった、真希とパジャマパーティーしよ」
「アハハ、いいねぇ」
恵というのが伏黒恵のことであり、つまりつんけんとした男であり、つまりまんまと悟に嵌められたのだと知るのは、あと数月先の話だ。
「で、だ。せっかくの期待を裏切るようで悪いけど、いくら僕が最強でも無理だよ」
「……そっか」
ぽつりと呟く名前を、悟がもう一度見下ろす。問うその声に、ぬくもりが宿った。
「なーに、どしたの」
「……ううん」
「棘より好きな人でもできた?」
「はい?」
「あっ、僕は駄目だよ、生徒と恋愛はしないんだ」
「何言ってるの」
名前の拳が、ぽこっと悟の肩を叩いた。春の棘と同じ。優しい殴打だった。
「それは残念。じゃあ憂太? でも憂太なんて好きになったら里香に殺されちゃうよ」
「……先生は生まれる前にお空に忘れてきちゃったデリカシーを一回取りに行ったほうがいいよ」
「やだよ、お空に行くってそれ死んでんじゃん」
「ふふ」
「ふふ、じゃない」
きゅ、と鼻を摘まれ、名前はちいさく「いてて」と零した。
「それで?」
「?」
「わかりきってることをわざわざ僕に聞くってことは、話聞いてほしいんじゃないの」
「……でもやっぱりやめた。先生口軽そうだし」
「あ、そんなこと言われたら僕傷ついちゃーう。生徒にはいつだってジェントルマンなのに」
「えっそうだったの」
「アハ、言うようになったじゃん」
「あいてっ」
額の正中を、ぴこっ、と悟の人差し指が弾いた。そこを擦る名前の瞼がやや伏せる。瞬き三つぶんの時間が流れてから、「……じゃあ聞いてくれる? ジェントル悟」と、抱えた膝に顎がちょぼんと乗った。
悟は空を仰ぎ、先を促す。
「……わたしね、高専に来てほんとによかったと思ってる。まぁ呪術界としては色々あるんだろうけど」
「うん」
「でもね、この世界なら、別にわたしじゃなくたっていいんだよね」
憂太も。パンダも。真希も。悟も。ここにいる誰もが、棘を棘としてくれる。今まで名前たちが生きてきた世界を嘲笑うかの如く、空気を吸うように自然に。
嬉しいことだ。
この上なく喜ばしい。
こんな日々を渇望していた。無防備に接することのできる“他”を求めていた。
望んだことのはずだった。
しかし寂寥が忍び寄るのは何故なのだ。胸から心臓を抜かれたようにぽかりと空虚を感じるのは、何故なのだ。
名前だけだった。
棘の隣には、名前だけだった。そこが名前の居場所だった。
名前だけだったのに。
存在意義が、揺らぐ。揺らいでしまった。気づいてしまった。
汚い。なんて汚いのだろう。
執着と独占欲に塗れた愛が浮き彫りになってしまった。自分でも気づかぬうちに膨れ上がっていた気持ちが、堪らなく怖かった。
棘は、優しいから。例え心が如何様に様変わりしたとて、名前の傍を離れることはないだろう。縛りになっている可能性がある限り、決して離れることなどない。破ることでどのような罰が降りかかるか、わからないからだ。
怖いのだ。
名前の存在こそが棘にとっての縛りとなっていることが。棘には幸せであってほしい。そのためにはいつか、名前が足枷となる日がくるのではないか。棘の意に反したまま、棘の隣に居続ける。そんな日が訪ってしまうのではないか。
それが、怖いのだ。
それならば、そうなる前に、その事実を突きつけられる前に、縛りを解きたかった。
解けないことなど知っている。
しかし悟なら、或いは。
そんな一縷の希望を持ってしまっていたこともまた事実だ。
伏せたままの瞳でぼんやりと地を見つめる名前に、悟はやれやれと溜め息をついた。
「名前はさ、ちょっと無意味に考えすぎ。ほんと意味ないからさっさとやめなよ。その淀んだオーラ、超似合わないよ」
「わあ辛辣」
「僕はジェントルマンだけど、別におべっか使うわけじゃないさ。だってそれって一人で考えて意味あんの? ちゃんと棘に伝えてごらん。馬鹿だったなあって思うよ、きっと」
「そう? 未来で自分の気持ちがどう変わってるかもわからないのに?」
「それは棘が決めることでしょ。名前が考えても仕方ないよ」
「──……」
ガキン! 真希の武具と憂太の剣が派手な音を立てた。それにかき消されそうなほどちいさな声で呟き、そのまま膝に顔を埋めてしまった名前の後頭部を、悟の手のひらが優しく撫でた。