孤独を噛んで
⁑
はじめてのキスは、中一の時だった。
名前と棘だけに押しつけられた掃除当番。特段断る理由もなく、ただ無言で箒を受け取った。普通の生活に憧れた二人の、これが日常だった。慣れてしまっていた。何も感じなかった。
日常とは、そういうものだ。
それに、二人きりは好きだ。ひとりでいる時よりも、よっぽど心が落ち着く。故に名前は、凪いだ心地で棘を見遣った。
花瓶の水を替える棘の瞳がやわらかくて、ああ、本当にやさしい子だな、と名前まで笑んでしまえたことが嬉しかった。
二人ぼっちの教室。斜に入り込んだ夕日が棘の顔を横切る。
この頃の棘はネックウォーマーやマスクで口元を隠していることが多かったが、この時は珍しく口元を晒していた。何故だっただろう。理由は忘れてしまった。
ただ、夕日の橙に映えた呪印が美しかったことを、鮮明に覚えている。
「これ、なんて花なんだろうね。ちっちゃくて可愛い」
「……」
「棘?」
「──……」
──名前。
無音で動いた棘の唇が、そうかたちを作った。なあに、と笑った名前の頬を、棘の両手が包む。僅かに上にある棘の双眸を、視線だけで見上げた。今にも触れそうな距離に近づいていた棘の瞳に、男の色がさっと差す。
あ。これ、は。
そう直感した次の瞬間には、唇がゆっくりと重なっていた。──…カラ、ン。箒が床に落ちる。表面がようやく触れる絶妙なもどかしさを残す、しかしそのやわらかさが生々しく感じられるキスだった。
校舎に二人だけが取り残されたかのように、何の音もしない。ただ、身の内で鼓動だけがうるさかった。
そのまま数秒留まって、重なった時と同様にゆっくりと唇が離れた。その唇を無意識に追ってから、再び棘を見上げる。棘自身も驚いたように、目をくりりと開いていた。
「……──、」
ごめん。
そう言うように、棘は名前の身体を抱きしめた。名前の香りを抱きながら、脳裏に浮かぶ今しがたの映像を反芻する。
棘が水を入れ替えた花瓶の花を、名前がやさしく見つめた。夕日を受けた名前の表情が、急に大人びたものに見えた。美しかった。触れたいと思った。自分だけのものであってほしいと思った。
キスを、していた。
我に返った棘は、腕のなかにおさめてしまっていた名前の瞳を覗き込んだ。自然と上目遣いになってしまった。
困ったように下がった棘の眉を、名前の人差し指がつつく。
「なんで謝るの。おバカちゃん」
「……ツナマヨ」
「ふふ、うん。わかってるよ。わたしだって同じ」
棘の肩に頭を預けて、名前は頬をほんのりと赤らめた。しあわせだと思った。
同じく頬を薄く朱に染めた棘が、名前の胸元に手を伸ばし、窺うように首を傾げた。
「……すじこ?」
「あはっ、それはまだだめ」
結構お茶目な棘であるから、名前はこの誘いを冗談として受け取り、さらりと躱した。
名前にあしらわれる前提での戯れではあったのだが、その実、棘の本心でもあった。
名前の傍を離れることなどないのだ。名前も同じ気持ちでいてくれるのなら、それならば今、棘のものになってはくれまいか。心だけでなく。身体も。棘のものに。
そんな気持ちが隠れていた。
それでも性的な欲求より、なによりも名前と穏やかに過ごす時間が大切だった。だから、名前の気持ちが整うまで、名前もほしがってくれるまで、いつまでだって待つことができた。
そうして過ぎ去った、中学時代。中一。中二。中三。
そして、
棘は名前を、押し倒していた。