孤独を噛んで


 悟と話した日の夜のことだ。
 決心を固めた名前は、棘の部屋の戸を叩いた。二十一時十分だった。

 カチャリ、ドアノブが回る。


「あ、お風呂あがりだ」


 こくりと頷いた棘の前髪から、雫が滴る。このあとパーカーでも着るつもりだったのか、季節にそぐわぬタンクトップから惜しげもなく筋肉質な二の腕が晒されている。首にかけたタオルで、棘はゴシっと頭を拭いた。


「ごめん、もう少しあとで出直す?」
「おかか」


 くい、と棘が名前の袖を引いた。このまま入って構わないということだ。名前は頷き、引かれるまま部屋へと入った。

 高専に来てから、棘は、急激に男らしくなった。角ばった喉元やおおきくなった筋肉。戸を開いた瞬間、入浴後の棘が放っていたその色気には思わず息を詰めてしまったほどだ。

 促されるまま、ベッドを背凭れにするようにラグの上に腰を下ろす。手渡されたおおきなクッションを抱え、ぽふっと顎を乗せた。

 口元まで覆える大振りのパーカーにすぽんと頭を通し、棘は隣に胡座をかいた。色違いのクッションを膝の上に乗せ、ぽふんぽふんと手で弄ってから、ちらっと名前を見る。


「いくら?」
「ん……その、」


 決心を固めたとはいえ、何と切り出せばよいのか。どんな言葉で伝えたら。そう逡巡してしまった名前は、無意識に後頭部を擦った。

 昼間、悟が触れたところだった。

 その刹那、棘の眉が不機嫌に寄る。
 修練の最中、視界の隅に映り込んでいた。苦しそうな表情で俯く名前と、似合いもしない穏やかな空気で名前の頭を撫でる悟。

 ざわり。棘の心が耳障りに騒ぐ。


「……」
「ん?」


 後頭部を擦っていた手首を掴まれ、名前は棘を見る。棘の双眸がはじめて見せる気配を湛えていて、名前は首を捻った。


「棘……? どしたの?」
「明太子」
「あ……昼間はちょっとだけ相談事してて。棘にも聞いてもらおうと思ってここ来たの」


 名前が心持ち気不味そうに──無論、決して軽いとは言えぬ話題だからだが──そう言うと、棘はふるふると頭を振った。


「お か か」
「あれ? 違うの?」


 たいていの棘の言葉は理解できる名前だが、上手くいかぬことがある。それがこういった場合だった。悟に触れさせたことを妬く思っているのだということが、まず思考に上らないのだ。

 互いに嫉妬する相手など、いなかった。

 社会性の欠如ともなり得た生育環境。故にこれは、二人だけで生きてきた代償とも言えるかもしれない。


「……おかか」
「え、う、わっ」


 反転する視界。背にはやわらかなラグの感触。天井を背景にかぶさる棘の口元のチャックがジィィと下がっていく。

 その手つきと、普段は見えぬ棘の領域に、名前の心臓がぎゅうっと締まった。

 反則だ。狡い。

 思わず見惚れてしまい上気した頬に、棘の唇が触れる。

 その吐息に混ざる強引さに、名前の手を縫い止めるその力に、名前は問う。


「ねえ、棘、どうし……っ」


 外耳をくすぐった熱い息に身体が軽微に震えてしまい、言葉が途切れた。こりゃあ止まる気がないな、と悟った名前は、棘の顔が僅かに持ち上がった一瞬の隙をついてその頬を両手で包み、鼻と鼻が触れそうなギリギリの距離で固定した。

 ──つもりだったのだが、途端、棘の額がこちんと当たる。可愛らしい頭突きのお見舞いだった。


「……棘、なに怒ってるの?」


 名前の瞳に困惑と、少しの怯えが混ざったのを見て、棘は名前の後頭部にそっと手を差し込んだ。

 たかだか撫でられただけで嫉妬心を抱くなんて、随分と狭量だろうか。言葉にすらできない不確かな関係で、そのような気持ちを抱くなど烏滸がましいだろうか。逆の立場だったら、名前も似たような感情を覚えてくれただろうか。

 同じ気持ちだと思って生きてきた。揺らぐことなど決してないと思っていた。

 しかしどうだ。

 他者との関わりに、こうも容易く乱れてしまうではないか。この心の凪がせ方も、そもそも揺らがぬ愛の紡ぎ方も、知らぬのだ。


「高菜こんぶツナ」
「ん、ぅ……っ」


 困惑。不安。懐疑。 
 それらが少しずつ混ざった表情で、名前は棘を見つめた。何かを言おうとして開かれ、そして何も言わずに閉じられる愛らしい唇を、棘の唇が塞いだ。

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