流れる星の落つところ
⁑
零時をすぎた夜々中。
呪術高専の中で最も高い瓦屋根の大棟に腰を掛け、名前は夜空を見上げていた。
この場所はいい。東京でも、夜空がこんなに濃い。小さな光が散っている。心が鎮まる。
この世界に身を置くようになってから、ここは名前の特等席だった。誰にも干渉されず、心髄を空虚にできる場所。
の、はずだったのだが。
「こーんなとこにいた。何してんのー?」
突然降り注いだ声。
誰かが訪うことなどまったく頭になかった名前は、肩を大きく跳ねさせた。
「なっ…………ちょっと、気配消して近づくのやめてよ」
「アハハ、その顔傑作。名前がぼーっとしすぎなんだよ」
口から飛び出しかけた心臓を正位置に戻しながら、名前は聞き慣れた声の主へと視線を移す。その視線に若干の恨みが篭っていたことは言うまでもない。
鬼飾りの上に、その人、五条悟は立っていた。片手に紙袋を提げ、まだ任務用の服を着ている。今戻ったところなのだろうか。
悟の最初の問には答えず、名前は言葉を続けた。
「お帰りなさい。今回は二週間くらいだったんだね」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「悟パイセン、これまで一度だってわたしに戻って来る日伝えたことないですよ。他の人から聞くことはあるけど」
「あっれー、そうだっけ」
頭の後ろに手を組みながら、悟はすっとぼけてみせた。
「ところでソレ何、怪我してんじゃん。珍しい」
名前の頭に巻かれた包帯を指差し、悟は言った。
「硝子先輩に診てもらったから平気」
「それなら良かった。いつやった?」
「今日」
「呪いは」
「一級ちょいって感じだったんだけど、恵連れてって戦らせてたら色々あって。あ、恵に少し怪我させちゃったの、ごめん……って聞いてなあい」
一応担任である悟にご報告兼謝罪をと思ったが、当の悟はというと、買ってきたお土産(自分用)の袋を覗き込み、「やっぱ美味しそ〜」なんて暢気に語尾を伸ばしている。
自分で質問したくせに。
っていうかいいなあそれ。
ねえ、わたしのお土産は?
名前の言葉を次々と無視し、
「で? 何してんの?」
悟からの二度目の問。
拍車が掛かったマイペースさに、名前の唇の隙間からぷふ、と変な息が出た。溜め息に笑い声が混ざったせいだ。会話をする気がなさすぎて笑ってしまう。
「今日は、星がたくさん降るから」
「へえ、流星群。こういうの好きだっけ」
「うん」
──好きだ。
「こういうの」は、好き。昔から。悟に拾われた死にかけの時でさえ、名前は虚ろな瞳で夜空を見つめていた。
今でも鮮明に思い出す。今際の際のあの恐怖。握りしめた血痕。失った命。思い出すたびに足元がぐらつき、迷い、立ち止まりそうになる。
悟じゃない。
悟の、捌け口なんかじゃない。
悟と身体を重ねることで、この世界での生き方を保っているのは──名前の方だ。
「先輩は? お星様好き?」
「オホシサマ?」
悟はポケットに両手を突っ込み、鬼飾りの上に器用に立ったまま空を見上げた。
「別に、好きでも嫌いでもないよ。普通と言えば普通だし、興味がないと言えばそれも正しい」
「……ああ、悟先輩って宇宙みたいなもんだもんね」
「…………はぁ?」
頓狂な声が悟から落ちる。名前は構わず目線を上方に固定したまま続けた。
「先輩は、宇宙みたいです、って言ったの。だから興味がわかないんじゃない?」
「変なとこ打ったんじゃないの。ほんとに硝子に診てもらった? 頭ん中お花畑になっちゃってんじゃん」
「うわあ超失礼」
際限のない強さ。軽薄が服を着て歩いているような、しかしその奥にある優しさ。掴みきれない人貌。すべてを見透すような碧眼。そこにいるのに、そこにいない。
そんな人だ。
そうだ。まるで、──宇宙のようだ。
「そんで先輩のお目々がオホシサマってわけね」
「何言ってんの大丈夫? 頭湧いちゃった?」
「湧いてませーん。さっきからほんと失礼極まりないなあ……あ、流れた! 見て見て先輩!」
悟の背後で、ヒュ──…と星が流れる。ほんの一瞬。花紺青の夜空に、散り散りに瞬く星々の隙間を、一息に駆ける。
儚く、美しい。星屑の最期だ。
「どこー?」
「こっちこっち。あ、ほらまた」
悟は名前と空とを交互に見比べる。何度か繰り返してから、大棟に頭を乗せるようにして瓦屋根に仰向けになった。
静かだ。夜の静寂は心地がいい。
無心に空を見つめていると、もう一筋流れる。
「わーお、綺麗。初めて見た」
「初めて? そうなんだ。貴重な経験に感謝してね」
「うん」
素直に頷いた悟へ、名前は流れた星から視線を移す。ふと思いつき、徐に口を開いた。
「ね、先輩。ちょっとだけ目隠し外して?」
「なんで」
「なんでも」
「なん──」「ね、お願い」
理由を説明するのも面倒で、名前は戯れるように悟の言葉を遮った。それは戯れらしく軽やかであったが、その実、小さな強要を含んだ懇請だった。
悟はぱちくりと名前を見る。
「別にいいけどさ、減るモンじゃないし。かわりにこのあと僕の部屋直行ね。長期出張の疲れ、癒やして」
語尾に見えたのはハートマーク。僅かに語尾を上げ、どこか問うような口調だった。
悟の手が名前の臀部に添えられる。その手つきといったら、名前が思わず生唾を飲み込むほどの婀娜っぽいものだった。目隠しを外すかわりに抱かせてね、と。悟はこう言っているのだ。
「……お目々の代価がおおきい」
「知らないの? 僕の眼はお高くつくんだよ」