嘘って言ってみてよ



 聞いたそばから忘れてしまった。
 何大学の何学部の人達だっけ。偏差値の高いところだったような、そうでないような。そして何君と誰君と彼君と?

 つまるところ何も覚えていない。

 ストローをくるりと回す。グラスの中の氷が液面を滑った。図らずとも落ちた溜め息に気づかれてしまっただろうか。真正面に座っていた“何とか君”から話を振られる。


「名前ちゃんこういうのはじめてなの? そんな緊張しなくて大丈夫だよ」
「あ、はあ、緊張してるわけでは」
「大丈夫だって。こう見えて俺も緊張してるし。まぁ気楽に話そーよ」


 この時点で、まるで話が通じないなと思ってしまった。目の前の人物に対するなけなしの“興味”が、一瞬にしてなくなっていく。その様、はらはらと風に飛んでいく粉塵の如く。

 くるり。もう一度ストローを回し、唇で挟んで吸い上げる。美味しくない。好きなはずのコーラなのに、まったく美味しくない。どれもこれも、全部悟のせいだ。

 諦めたように口を離す。

 ──先生は今頃、何してるかな。

 この期に及んで性懲りもなく、癖のようにそんなことを考えしまった。


「ねえ、名前ちゃんはさー、何が好きなの?」


 だから咄嗟に、「先生です」だなんて答えてしまった。本当に、性懲りもない。


「へぇ? 教師になるのが夢なんだ?」
「ああ、そっか、違った、先生はもうやめたんでした」
「あ、そうなの? ちなみに俺はスニーカー収集が趣味でさ、あ、見てよ今日履いてるやつなんかは──…」


 名前の言う先生ではなく、職業としての先生と捉えたのだろう。お門違いもいいところだ。そして聞いてもいなければ興味もないお靴の話をされ、名前はげっそりと白目を剥いた。やはりまるで話が通じない。

 失恋を忘れるには新しい恋、だなんて言葉を、どこぞの誰が書いたのかもわからないネット記事で見てしまったのが悪かった。そんなタイミングで野薔薇に合コンに誘われ、なんとなく、そして些かの期待なんかも込めて、のこのことついてきたのが間違いだった。

 そもそも本当に失恋したのかと言われれば、正確には異なる気もする。面と向かって断られたわけではないし、これっぽっちも相手にされないのは、出逢った頃から今日という日まで、なんら変わりなく続いていたのだ。

 名前が、耐えきれなくなっただけだ。

 苦しかった。
 好きで、好きで、好きで、でもまったく想いの届かぬ日々が、苦しかった。

 自分に持ち得る最大限で表現してきたつもりだ。悟に好かれようと、努力もしたつもりだ。悟に意識してもらえるよう、あれこれ手を尽くしてみたつもりだ。

 それでも、悟の態度が変わることはなかった。手渡し続けた恋心を、受け取ってもらえることはなかった。

 少し、疲れちゃったな。

 そう思ったとき、名前の中でぷつりと音がした。穏やかに張り詰めていた悟に対しての気持ちが、ぷつりと緩んだ。保ち続けることができなかった。受け取っても跳ね返してももらえぬ心を、掲げ続ける強さはなかった。

 恋心を、仕舞いたいと思ってしまった。

 ぽかりと侘しく荒んだ心を、別の何かで埋められないだろうか、と自棄になっていた。そんなこと──少なくともまだ、こうして悟のことを考えているうちは──不可能なのに。




 どこぞのブランドのこのデザインがどうのこうのと尚も語っている目の前の男から、隣に座る野薔薇へと視線を移す。

 野薔薇はというと、その男勝りな凛々しさを包み隠さず発揮していて、恐らく呪術などとは無縁の、ゆるふわ女子大生に慣れているのであろう彼らを圧倒していた。野薔薇は野薔薇で「ダメねコイツら。タイミングみてさっさと撤退すんぞ」みたいなアイコンタクトを送ってくるのだから、もはやこの会は何の意味も為していないどころか、ただの不要な何かへと成り果てていた。

 野薔薇は何故合コンなどしたかったのだろう。今になってもまだわからない。野薔薇のお眼鏡に敵う相手が、合コンで見つかるなどとは思えないが。

 一時の気の迷いかな。あるよねそういうこと。今のわたしみたいにね。

 やはり、図らずとも長い長い溜め息が出てしまう。それに気づき、何とか盛り上げようとあれこれ錯誤している先方が不憫に思え、名前は手洗いのフリをし席を外した。







「……やっぱ先生じゃなきゃダメだぁ」


 店の入り口を少し出た手前の壁に凭れ、誰にともなく呟いた。

 小洒落た店だと思う。如何にも女子が喜びそうな外観からはじまり、可愛らしいメニューが取り揃えられ、しかし細かなところに洒落たセンスが滲む感じの。

 女子はこういうところが好きでしょ、とでも言いたげなチョイスに、何故だか寒気がした。

 このまま野薔薇に連絡をして帰ってしまおうか。野薔薇もさっさと撤退してきそうだし。

 そんなことを考えていた、その時だ。


「あ、いたいた」


 真正面に座っていた“何とか君”のご登場である。「げ、」とちいさく声が漏れる。まさかわざわざ追いかけてきたのこの人。正気? まだそんなに時間も経っていないはずなのに。


「大丈夫?」
「?」
「具合でも悪くなったかと思ってさ」
「ああ、大丈夫。少し外の空気吸いたくなっただけです。個室は空気の流れが淀むから」
「ああ、そっか、それならよかった」


 彼は自然な動作で横に並び、覗き込むような角度をつけて名前を見下ろした。


「ね。あんまり乗り気じゃないんでしょ。もしよかったら俺とどっか行こっか?」
「どっか……? 野薔薇は?」
「あの子はあっちのやつらが可愛がってくれるよ」
「可愛がるって、何……」


 甘ったるい声に、より一層の寒気が襲う。さり気なく手を握られ、指先で手背を擽るように撫でられる。ぞわりと嫌悪感が走った。彼の意図を察し、ああそういうこと、と名前の瞳が温度を失くしていく。


「君らだって、結局こういうこと期待して来てんでしょ?」
「……何言ってるの」
「まぁ素直にうんとも言い辛いよね、女の子は」


 振り解こうとした手を一層強く握られ、そのまま引かれる。彼には聞く耳など最初から付いていないのだろう。言葉で丸め込み、少し力任せに押せば墜ちるとでも思っているおめでたい男のようだ。

 こうなったらこっちも実力行使か。相手は一般人だし。と物騒な考えが頭をよぎり、なんなら掴まれている手にささやかな呪力さえ込めようとした、その瞬間だった。

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