嘘って言ってみてよ


「みーつけた」


 聞き慣れた、しかしこの場では絶対に聞かれるはずのない声が、名前の背後かつ頭上から落ちてきた。振り返る間もなく肩を引かれ、背中が何かに触れる。

 すぐにわかった。
 触れたことなどないのに、それでも、すぐにわかった。

 あの人の、胸板だと。

 振り返ることができず、視線を落としたまま呟く。


「な、んで、ここにいるの?」
「ナーイショ」


 聞きたいことは山ほどあった。
 それでも、何よりも嬉しかった。たとえ通りすがっただけだとしても、今回の行動を教師として咎めるためだけだとしても、嬉しかった。

 ──…先生。

 じんと胸の奥が熱くなる。
 こんなにも、まだ、悟でなくてはならない。

 ──“好きでいるの、やめることにしたの”

 恥ずかしい。なんて恥ずかしい台詞だ。まったくどこの口がそんな台詞を言ったのか。聞いてみたいものだ。



 突然現れた見も知らずの男に、未だ名前の手を握ったままの男は呆気に取られた様子で固まっていた。ようやく発した言葉が「……は、誰」で、悟はにこやかにその手を払った。


「ほらほら、モブは帰った帰った」
「モッ、……名前ちゃん、どういうこと」
「はいはい、軽々しく名前を呼ばない。勝手に話しかけない。今日は事故みたいなもんなんだから、どういうことも何もないの。さ、お家へお帰り」
「……何コイツ超失礼なんだけど」


 刹那、背中のほうでぴりっと空気が裂けるような音がした。尋常ではないそれに、恐る恐る首を捻り見上げる。


「あ? 人のモンに手付けて失礼なのはどっちだよ。原型その形保ってることに感謝しろ」


 ──心臓が、ヒュッと収縮した。

 見上げた先では、特級呪霊さえオーラだけで燃やしてしまえそうな凄みを湛えた悟が、眼前の男を睨んでいた。当の男はというと、顔を真っ青にしてじりじりと後退っている。

 致し方がない。
 目の前にいるのは、世界最強の男。悟の前ではどんな生物も皆等しく弱者である。


「ほら、帰った帰った」
「っ、くそ、こんな女……」


 去り際に何と捨て台詞を吐こうとしたのだろうか。店の中へと戻ろうとしながら何事かを口にしかけた彼だったが、言い切る前に、体躯の前面がびたんと地面に貼り付いた。

 つまり、転んでいた。

 その醜態を、悟は虫でも見下ろすような冷たさで見遣った。口調は軽いが、そこに温度は微塵も篭っていなかった。


「あ、ごめーん踏んじゃった。僕、足長くってさあ。まあボロ切れみたいな靴だし別にいいよね、汚れても」


 地面に貼りついている男は、さっき何と言っていただろう。
 本日のお履物は、ヴィンテージ物だとかプレミアがどうとか言っていなかったか。


「く、っそ」


 顔色を赤や青へと忙しなく変えながら、よたよた、ふらふら、入り口にゴンとぶつかりつつ逃げるように店内に戻る男。不覚にも少し同情した。

 入れ違いで、ツカツカと靴底を鳴らし店から出てくる姿があった。


「あ、野薔薇」
「やめやめ、マジくだらねぇ撤退〜〜〜!」


 ぴらぴらと手を振り払う動作で告げた野薔薇は、悟を見て「ん?」と足を止めた。


「何でいるのよアンタ。まぁ別に何だっていいけど」
「や、どーもー。野薔薇も災難だったね」
「こんなの事故よ事故。ったく汚い手で触りやがって」
「……野薔薇、大丈夫だった?」
「は? 大丈夫に決まってんでしょ。蹴り上げてやったっつーの。野薔薇様ナメんな」
「蹴ったって、な、なにを」
「んなの、ナニをよ」


 ヒィ、と悟から声が漏れた。笑ってはいけないと思うのに、笑ってしまう。さすがは野薔薇様。


「は〜〜私は鬱憤を散財してから帰るわ。アンタたちは」
「僕は名前を連れて帰るよ」
「そう? よろしくね」


 ぷりぷりと怒りながら繁華街に溶けていく背中を見送って、名前は悟を見上げた。


「先生、助けてくれてありがと。でもほんとになんでここにいるの、って、どこ行くの……?」
「いーから黙って」


 有無を言わさぬ動作で腕を引かれる。そのぴりぴりと張り詰めた空気は、明らかに名前のみに向けられたもので、名前は問うことを諦め従った。

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