嘘って言ってみてよ


 悟の歩幅についていけず、小走りで追いかけること、約三分。

 悟の足が都内有数の高級ホテルのエントランスをくぐった時はさすがに引き留めようとしたが、「五条様。久方振りでございます」なんて言葉がボーイから出てきて、名前は得心した。

 普段のおちゃらけた姿に忘れそうになってしまうが、五条家の坊だったり、特級呪術師だったり、名前には想像もできぬ生活基盤がそこにはあるのだ。

 悟は何故、こんな場所に連れて来たのだろう。名前には到底不釣り合いな場所だ。

 無言のまま迷い無く歩を進める悟の背中が、酷く遠く感じる。曇り一つない大理石の廊下に、浮かない表情の名前が反射していた。

 リン、と響く上品な音。
 エレベーターの扉が静かに開いた先は最上階、都内の夜景が一望できるスイートルームだった。


「わ……何この部屋」


 部屋の広さがおかしい。ベッドのサイズがおかしい。装飾品や調度品の洗練具合、何もかもが名前の知るものとは異なっていた。

 自分の置かれた状況も忘れ、景色を見ようと窓際に駆け寄りそうになった名前を、悟の声が引き止める。一気に現実に引き戻された。


「名前。座って」
「……はい」


 座るのが躊躇われるあしらいのソファへと、遠慮がちに浅く腰を下ろす。隣に悟がぼすんと座った反動で、僅かに身体が上下した。

 悟は背凭れにおおきく背を預け、名前に腕を回すような見目で背凭れの上縁に腕をかけた。自然と身が竦む。


「さて、何から話そうか」
「何からっていうか……何一つとして状況が理解できません」
「ふーん。ほんとに?」
「ほんとに」


 悟がふう、と溜め息を吐いた。
 名前の眉が寄る。溜め息を吐きたいのはこっちのほうだ。

 好きでいるのを諦めたいと思うほど好きで、しかしその相手の眼中には微塵も入っていなくて、情けなくもこうして醜態を晒し、運よく救われ、理由も知らされず高級ホテルに連行されている。

 あの宣言をして以降、悟を意識しないよう精一杯努めた。あくまで平静に。教師と生徒とというありふれた関係で在れるように。駆け寄りたい衝動を抑え、口を衝きかける“好き”を堰き止め、それはもう心に血の滲むような努力をした。

 それでも恐らく、悟には気づかれている。完璧に自分の心を欺けるほど、名前は人間ができていなかった。

 気づいているのならせめて。

 応えるつもりがないのなら、きれいさっぱり振ってほしい。諦めるまで時間はかかるかもしれないが、結局は諦められないかもしれないが、せめて希望を絶ってほしい。中途半端な、名前が希望と思ってしまうような振る舞いをしないでほしい。

 だってこんなの。
 生殺しだよ。狡いよ。先生。


「じゃあそんな鈍ちんな名前のために特別授業だ。一個ずつ質問していーよ」
「……鈍ちんなのは先生なのに」


 ぶつぶつ文句を溢したところで悟のサングラスの奥が緩むわけもない。名前は唇を尖らせ、ソファの上で抱えた膝に向かってぽつり、ぽつりと溢していく。


「先生はなんで怒ってるの?」
「へえ、鈍いくせに怒ってるってことはわかるんだ」
「……なんであんなとこにいたの?」
「なんとなく」
「ここは何?」
「僕のための部屋」
「あ、そう、先生のための。すごいね……じゃあなんでここに連れてきたの?」
「あんな有象無象の中でゆっくり話もあったもんじゃないでしょ」
「話って?」
「なんだと思う?」


 埒が明かない。特別授業とは一体。

 悟に元来こういった面があることは百も承知だが、今日は一段と意味がわからないし、やたら名前につっかかってくる節がある。わからないことばかりで、抱えた膝をより一層抱きしめる。

 話は平行線。悟に答える気はまるでなし。雰囲気は最悪。それならせめて、最後に自分の気持ちをぶち撒けて、それで潔く散ろう。そのくらいしか出来ることが思いつかない。

 両の手を、強く握る。


「……なんで、あんな嘘ついたの」
「……嘘?」
「さっき、わたしのこと“人のモン”って言ったでしょ。嘘でも、あんなこと言わないでよ……」


 名前の言葉に、悟の唇が固く結ばれた。俯いてばかりの名前は気がつかなかったが、固く閉したのち、心を決めたかのように徐に開く。


「──…って言ってたじゃん」
「……?」
「だって僕のこと、あんなに好きって言ってたじゃん」


 名前はついに、己の膝に顔をうずめた。声はか細く、若干の震えを伴っていた。我ながら情けないと思う。


「言ってたよ。言ってたし、好きでいるのやめるとか恥ずかしいこと言ったくせに、先生にもわかっちゃってたと思うけど、何もやめられてない。……だからこそあんな嘘、つかないでほしかった」
「……え、」
「そりゃあ、ところ構わず好き好き言って迷惑かけちゃったと思う。先生の立場とか気持ちとか、何も考えてなかったし。……ごめんね、先生。好きになっちゃってごめん。迷惑ばっかでごめん。未練がましがったけど、今日でほんとに終わりにする。だから、最後の我儘。先生からちゃんと言葉で引導を渡してほしい」


 言い切って、ようやく顔を上げ悟を見る。きっと呆れた顔してるんだろうな。そう思っていたから、悟がサングラス越しでもわかるほど苦しく歪んだ表情をしていて、名前は困惑した。

 なんで、先生がそんな顔してるの。どっちかっていうとそれ、わたしの顔じゃない? そう言いたかったが、言えなかった。

 悟の指先に頬を撫でられたからだった。


「そんなの、渡してあげない」
「……先生?」
「何話し出すかと思ったら、名前、すごい勘違いしてるよ」
「……?」
「は〜〜ってか、勘違いしてたの僕の方? え? まだ僕のこと好きなの?」
「え……当たり前……」
「っは〜〜〜マジで」


 頭を抱えてみせる悟の、その意図が掴めない。悟との間で何かがおおきくズレていることだけは確かなのだが。


「じゃあ何、押して駄目なら引いてみろ、的な作戦?」
「え? いや、さっきも言った気がするけど、少なくとも心構えは本気だったよ、中身は伴わなかったけど。じゃなきゃあんな宣言しないし、合コンなんて行かないもん」
「なんで宣言したの」
「そ、れは、……」


 残酷な問だ。
 この答えを、名前に口にしろというのか。


「……こんなに脈なしの恋を続ける強さがなかったからだよ。苦しくて、苦しくて、逃げちゃったの。情けないことにね」


 ふふ、と笑ってみせたが、果たして上手く作れていただろうか。頬のあたりの筋肉が上手く動かない。


「……僕のせいだね」


 ぽん。頭の上におおきな手が乗る。
 胸が苦しい。こんなふうに撫でてもらえる未来を、いつも思い描いていた。最後の最後に叶うなんて、神様も皮肉なものだ。


「ごめん、名前。もっと早くに伝えればよかった」


 ──ごめん。

 涙が滲む。わかっていた。覚悟していた。言葉にしてくれと頼んだのは名前だ。それでも、本人の口から聞かされると、その衝撃は計り知れないものがある。

 臓腑すべてに鉛を詰め込まれたようだ。手足が急速に温度を失っていく。頭の中がぐらくらと回った。

 でも、これでいい。
 これで、いいんだ。

 溢れた涙が、頬を伝った。悟の親指の腹がそれを優しく掬いとる。





「──僕も、名前が好きだよ」





 音が、時間が、何もかもが。ぴたりと止まった。

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