嘘って言ってみてよ
「………………は?」
何時だったか。悟も同じような反応をした。
この一音を発するまでに非常に長い時間を有した。その間、悟は名前の反応を楽しむように眺めていた。
「あはは、何その顔。引導なんて渡してあげないって言ったじゃん」
「え、…………え?」
「だから、僕も名前のことが好きだよって」
頭が真っ白だ。回らない。悟の言っていることがわからない。わからないから、何度でも言ってほしい。
「……ちょっとわかんない、もう一回言って」
「フフ、なあに、甘えんぼ? 何回でも言うけどさ」
悟の御尊顔が近い。なんだかいつもより色気も増し増しな気がする。つまり非常に緊張する。
悟の指先がこめかみを滑り、そのまま髪を耳にかけられた。顕になった耳介に、悟の吐息がかかる。
「好きだよ、名前」
「…………っ」
「名前が僕の毎日からいなくなってやっと気づいた。ホント馬鹿だったと思ってる」
「それは……さ、先生。こんなこと自分で言いたくないけど、ずっと自分に向いてた好意がなくなって、一時的にそう感じるだけだよ。一過性の喪失感から芽生えた錯覚の類なんじゃない……?」
「……名前が僕を好いてくれたように、僕にも名前を好く権利がある。それを名前が否定するのはおかしいよね」
「だって、信じられな」
「僕の当たり前からいなくなったことを契機に、自分の気持ちに気づいちゃいけないの? それって、普通にしてて気づいた気持ちと何が違うの?」
「……っ」
名前は口を噤んだ。
悟の言うことも最もだ。しかし、束の間の、まやかしの幸福ではないと言い切れるか。一時を過ぎれば悟の気持ちが急速に冷めていってしまいやしないか。
そんな不安が払拭できない。
「僕が大人気なかったことは認める。そのせいで辛い思いさせちゃったのも、あんなゴミクズ野郎に触らせちゃったのも、全部僕のせいだ。信じられないならそれでいい。これから信じてもらえるようにどんな手でも尽くすさ。でもさぁ、」
背凭れに掛かっていた悟の腕が、そのまま名前を抱き寄せた。腕に力が込められ、痛いほど強く抱きしめられる。
「……好きになってごめんなんて言わないでよ」
痛い。胸の真ん中が痛い。
こんな声を出せるものだろうか。
一時のまやかしなどで、これほど切なく、これほど苦しく、これほど希求に満ちた声音を作れるものだろうか。
何よりも求めた人の腕の中にいる。夢にまで見た。これを望まずして生きていくことなど、──名前にはできない。
名前は、その愛しい胸に体重を預けた。
「……先生の馬鹿」
「うん。だからほら、泣かないで」
「……いいの? めちゃくちゃ重いよ、わたしの愛」
「大丈夫。僕のほうが重いから」
「ううん、わたし」
「いーや、僕」
「ふふ、説得力ないよ。先生の愛、まだ知らないも……っ、ん」
溢れた笑みを、悟の唇に奪われる。
やわらかい唇はいとも容易く名前を蹂躙し、その自由を支配下に置いた。
上唇を食まれ、下唇を食まれ、割って入った舌が歯列をも割り、口内を弄ばれる。背筋を走るぞくりとした感覚が止まらず、名前は救いを求めるように悟の服を掴んだ。
その手すらそっと、しかしどこか有無を言わさぬ強引さで剥がされ、そのまま指が絡まる。
おおきな手だった。
自分の手が随分と可愛らしく感じられて、その歴然たる男女差に名前は切なく眉を寄せた。
色々と限界だった。
それはもう色んなところが限界で、名前は力を振り絞って悟を唇から引き剥がした。
「っ、急に大人っぽいことしないで、心臓もたない……っ」
顔が火照っているのがわかる。
否、火照っているどころか、真っ赤であること間違いない。
そんな名前を見下ろして、何を思ったか。悟の舌が、自身の唇をぺろりと舐め上げた。
「いいね、それ。さてそれじゃあお望み通り、ここからは大人の時間だ」
……お望み通り、とは。
悟の言う大人の時間というものに慄き、そのくせそこに期待なんかもして、名前は悟に身を任せた。
こうして、蓋を開けてみれば存外呆気なく、名前は悟に溺れていく。