白ではない



「恵ー! おっはよーーーー!! 気変わったー?!」


 突如として耳に飛び込んできた声に、恵は胸中でマジかよ、と言葉を吐いた。部屋は真っ暗。当然瞼はまだまだ重く、耳を塞ぐように布団を頭まで被る。


「めーぐーみー!!!」


 微睡みに己が名を呼ぶ声が響く。もはや大声と言っていい。ついでにドンドンドドンとリズミカルに戸まで叩かれ、恵は辟易した。のそりと半身だけを起こし、眠気の残る頭をがしっと掻く。


「何時だと思ってる……」
「あ、起きた、おはよう」
「そんな大声誰でも起きんだろ」
「あは、悠仁は寝てるよ」
「アイツと一緒にすんな」


 東名高速のアスファルト上でさえ寝られる男と同じ括りにされては、たまったものではない。

 恵は不本意ながらも立ち上がり、徐に戸を開けた。

 完全にオフモードの格好をした名前を、まだしょぼとした目で見下ろす。


「あれ、意外と素直にドア開いた。おはよ、恵」
「……こんな時間にいつまでも廊下で話されたら近所迷惑だろ、まぁ主に狗巻先輩だけど。……ホント仕方ねぇな。待っとけ、準備すっから」
「ふふ」
「……なんだよ」
「ううん、ありがと。あと後ろにすごい寝癖ついてるよ」
「あ、そ」


 後ろ頭を触りながら部屋の奥へと戻っていく恵の背中を、名前はにこにこと見つめてから戸を閉めた。

 その三秒後のことだ。

 廊下の窓からまだ暗い空でも見上げようかと窓辺へ歩み寄っていた最中、再び部屋の戸が開いた。名前は驚いて振り返る。


「えっ、もう準備できたの」
「いや、まだ」
「じゃあなしたの」
「いや、廊下寒いだろ。なんで部屋入んねぇんだよ」
「え」
「遠慮なく起こしに来るくせに、変なとこ気遣うな」
「いや、気を遣ったわけでは」


 ないんだけど、と言い終わる前に腕を引かれ、名前は部屋の中へ入っていた。

 変なところに気を回してくれているのは恵のほうだ。というかそもそも、もっと怒ってくれてよかったのに。

 どうしたものかと身の置きどころを探していると、名前に向かって何かが放られた。バサッという音から布類と思われるそれを、両手で抱き込むように受け止める。

 腕の中を確認すると、男物のブルゾンだった。名前は首を傾げる。


「?」
「それだけじゃ寒い。早朝だし、鵺は結構スピード出る」
「……貸してくれるの?」
「風邪引かれてもな」


 名前に背を向けた状態で話していた恵だったが、名前の動作及び会話がはたりと止まったことが気になったのか、不思議そうに振り返った。

 そして、一言。


「何赤くなってんだよ、まさか既に風邪引いてるとか言わねぇよな」
「…………言いません」


 些かむすっと答えた名前に、「ならいい」と再び背が向けられる。

 そのおおきなブルゾンに、名前はそっと袖を通した。

 名前の知らない、恵の匂いがした。







「鵺」


 恵の影から面をつけた鳥が現れる。鵺に会うのは久しぶりだ。名前は鵺の頭を撫で、ポケットから小振りな袋を取り出す。


「おはよー、鵺。今日はありがとね」
「……オマエ何それ」
「何って……餌(パン屑)?」
「食わねぇわ」


 あれ、そうなの。
 そう問うた呆け面の額を、恵がぴこんと人差し指で弾く。そこを指先で押さえて、名前は笑った。

 鵺が促すように名前に首筋を擦りつける。


「ふふ、くすぐったい。乗っていいの?」


 すり、鵺の羽毛が名前を擽る。可愛い。こんな子たちをいつでも呼び出せるなんて恵は狡い。名前はそう思う。

 鵺に跨る。大腿や手のひらに羽毛のやわらかさが心地よい。

 白み始めた空が、夜を押し上げていく。夜と朝の狭間の空。美しい。星はもう見えない。月がまあるい雲のように薄くなってきていた。

 空から視線を外し、振り返る。
 そこそこ離れた距離で恵が名前たちを見守る構図になっていて、名前はぽかんと口を開けた。 


「なんで、恵も一緒に行こうよ」
「こっちこそなんで」
「え、だって……なんで?」


 “何故”の応酬に、恵の口から溜め息が漏れる。そんな大仰な溜め息を吐かれても。一緒に行くものだと思っていたのだ。何故と問われても“そういうものだと思っていたから”としか答えようがない。


「昨日からオマエ話通じなさすぎ。……いや、いつもこんなもんだったか」
「やだな、いつもだなんて。でも人間だもの、そんなこともあるよ。ね、行こうよ」


 名前が手を差し出す。
 恵の視線が一瞬動き、次いで片手がすっと上がった。手を取るつもりはないという意思表明のようだ。


「残念だったな、定員オーバーだ」
「あら残念だったね、大の男二人乗せれるの知ってるもん。ねぇ鵺。そんなヤワじゃないもんね」


 同意するように、面から覗く鵺の目が恵を見つめる。まるで主人が入れ替わったかのようで、恵は非常に不本意そうに眉を寄せた。ついでに最後の足掻きの如く付け加える。


「……鵺もそこまででかくねぇから狭いだろ」
「大丈夫だよ。ほら」


 名前の後方に空いているスペースを示す。渋々近づいてきた恵が、物言いたげな目をした。名前も視線で問う。


「ああ、いや、オマエさ、思ってたよりちびだな。俺のソレもぶかぶかだし」
「あ、笑った。わたしは普通です。恵がおっきいんだよ、まだまだ伸びてるでしょ」


 もう一度促してみる。恵は「そりゃ成長期だから」と言いながら、今度は素直に──と言っていいかは微妙かもしれないが──鵺に跨った。

 トン、と。

 背中に恵の胸板が触れる感触がした。

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