きみの破片が心臓に刺さる



「あれは術式だよ」


 治療室内で、悟の声がそう告げた。
 分厚い本の頁を捲りながら、硝子は無言で先を促す。


「呪霊か呪詛師かわからないけどね。対象の“限定的な唯ひとつ”に関する記憶のみを封じてる。僕の記憶がないってことは、“最愛”の記憶に働くのかもしれないし、封じる対象を術者が指定できるのかもしれない。どっちにしろ胸糞悪い術式だよ。超絶性格悪いね、この術者」


 本に視線を落としたまま数秒思案し、硝子が口を開く。


「オマエほどの呪力があったら名前にかかってる術式の相殺とか……できたらとっくにやってっか。できない理由は」
「……名前の心臓に、何かがある」


 本を掴む硝子の指先が、ぴくりと反応した。
 名前の身体は硝子が隈なく診たのだ。そんな大切な臓器の損傷を見落とすはずがない。


「硝子が気づかなくて僕がわかるってことは、これも物理的なものじゃなくて術式による影響なんだと思う」
「私が最初に治療したときに感じた違和感はそれか?」
「多分ね。まぁ脳と心臓の両方かもしれないけど」


 硝子がチッと舌打ちをした。
 悟は長椅子に深く腰を掛け、その長い足の上に肘を乗せ手を組む。


「そんで、術式をコッチで無理くり弄ろうとすると、多分名前の心臓が止まる。名前は悠仁じゃないし、そもそも心臓にどんな作用を与えるのか確証が得られない以上、反転術式で生き返らせるなんて博打は打てない」
「……仲間がいるな。こういうタイプの術式使いは戦闘は得意じゃないだろ。前線には別の呪霊もしくは呪詛師が出たはずだ。それも手練のな。でなきゃ名前があんな怪我をして、且つこんな術式をかけられるわけがない」
「……偶然にしては不自然が過ぎるな。周到に仕組まれてる」


 ああ、と硝子が答える。


「……そういや巻き込まれた子供が居たって報告上がってたな。名前が庇ってほぼ無傷だけど」
「一般人を餌に使ったか……虫螻が」
「敵に心当たりは」
「ありすぎてわかんない。どーせどっかの馬鹿が、僕の命に手が届かないからってあれやこれや試しての強行だろうけど」


 悟の命に誰の手も届かぬことは、悟が幼少の頃より呪術界の誰もが認識していた。

 それほどの存在感。
 それほどの強さ。

 それが、最強というものだった。

 故に陰謀を企てる者共は、悟に直接手を出さぬ方法を模索する。
 悟は名前との婚姻を包み隠すことなどしていなかったし──なんなら嬉しくてあらゆる所で言い触らしていた──、その情報を手にした何者かが、嫌がらせと言うには質が悪過ぎる今回の悪行を思いついたと考えるのが最も妥当だ。


「今のところはその呪霊だか呪詛師だかを探すしかないな。考えたくないが、最悪なのは──」
「術式解かずにその術者が死んでる場合、だね」


 術者が死んだ際、術式は自動的に解ける場合が多いが、すべての術式がそうとは限らない。

 首謀者がその術者であればまだいい。よっぽどの不慮の出来事がなければ、嫌がらせに苦しむ悟を見るために生きているだろう。
 逆に首謀者が術者と異なる者であり、且つ術者が死んでも術式が解けないタイプであった場合、悟に与える心的負荷を最大限にするために、首謀者が術者を殺害する可能性が出てきてしまう。


「……死ぬ程ムカつく」


 ぼそりと呟いた悟の声には、空気が痛々しくひりつく殺気が満ちていた。この部屋にいたのが硝子でなければ、殺気にあてられ失神する者がいたとておかしくない。

 名前に手を出したらどうなるか。一度、呪術界全土に知らしめておかなければならない。

 ──どんな手を使ってでも。


「……万が一死んでたとしても、生き返らせてでもぜってー殺してやる」







 悟が硝子と話している頃、名前は部屋に飾ってあった一枚の写真を眺めていた。頬杖をついた名前から落ちる物憂げな溜め息が写真にかかる。

 そのちいさな画の中では、悟と、名前が。頬を寄せ馬鹿みたいに笑っていた。

 自分の姿を見紛うことなどない。
 この写真を撮った記憶はないが、これは間違いなく名前だ。自分の知らない自分が、自分の知らぬ顔で笑っている。自分がこんな顔で笑う相手がいようとは思わなかった。

 こんな、幸せに満ちた表情で。

 写真の中の名前は、本当に悟のことが好きなのだと一目でわかる。
 いつから。どんなふうに。悟に出逢い、恋をして、共に生きるまでになったのか。


「……わたしの馬鹿。どうして思い出せないの。一番大切な人なんでしょ」


 誰もいない部屋に、名前の呟きはひどく響いた。

 この部屋に来てからというもの、悟との想い出を持たぬ名前に、悟はあらん限りの愛を注いでくれる。その愛は心地よく、どこか擽ったく、手放しでその胸に飛び込んでしまいたくなるような安寧を携えていた。

 しかしこれは、名前の前の名前に向けられたものだ。名前を通して悟が見ている、以前の名前に。

 ──羨ましかった。

 こんな愛を注いでもらえる名前が。そんな人物と共に生きていた名前が。

 名前はひとり、両の手で顔を覆った。


「思い出したいよ……」

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