きみの破片が心臓に刺さる


「たっだいまー」
「っ、おかえりなさい」


 玄関から聞こえた悟の声に、名前は慌てて顔を上げ、写真をもとの位置に戻した。ガタガタと椅子を直し、玄関に出迎える。

 悟は「名前〜〜帰ったよ〜〜」とおおきく手を広げて抱きつこうとして、そこではっと気がついたように動きを止めた。

 今回に限ったことではなかった。
 これまでの習慣か癖か、悟はことある毎に名前を抱きしめようとしたり、キスをしようとしたりする。そしてはたと名前の精神状態を思い出し、しゅんと手を引っ込めてから、気を取り直したように「ごめん、またやっちゃったー! 気にしないでね」と笑うのだ。

 悟は記憶のない名前を気遣い、決して指ひとつ触れまいと固く心に決めているようだった。

 その度に名前は思う。

 ああ、まただ。
 また、彼を傷つけてしまった。

 どんな反応をすればいいのか。どんなことをどんなふうに話し、どんな距離感で接したら正解なのか。わからないのだ。

 苦しかった。

 傷ついた顔をする悟を見るのも、悟にそんな顔をさせてしまう自分も。できることなら目を逸らし、逃げ出したくなってしまう。

 そんな心をぐっと堪え、名前は平静を装う。


「遅くまでお疲れさま。硝子先輩何か言ってた?」
「ううん、残念ながら。取り敢えず僕はこのあと、名前の今回の任務先を調べてみるよ。今日はもう少し範囲を広げる」
「え……また? それもこんな遅くに」
「うん。少しでも手掛かりがほしい。そのためなら何度だって出向くさ」


 名前を申し訳無さが襲う。
 特級呪術師という肩書を聞くだけで、元来の多忙さは想像に余る。その任務と教師としての職務に加え、名前のために昼夜問わずあちらこちらを駆け回ってくれているのだ。

 ここに来てから、悟がきちんと寝ているところを見たことがない。


「それならわたしが行く」
「駄目に決まってるでしょ」
「でも」


 悟の保護は徹底的だった。
 外出は基本的に悟が一緒でなければ許されない。任務は当然あてられない。どうしても必要な外出──悟が何でも買ってくるから必要な外出も特にないのだが──には、一級以上の術師の同伴が必須とされた。七海とか。


「じゃあせめて、」


 そこまで言って、名前は言葉を詰まらせた。

 少し休んでほしい、とは言えなかった。だって悟がここまでしているのは、どれもこれも自分のためなのだ。
 守られるばかりでいることが辛くて、何もできないことが不甲斐なくて、悟のことを思い出せないことが忌々しくて。そんな自分を正当化したくて、悟に休養を押し付けようとしてしまう。

 口を噤みしょんぼりと睫毛を伏せた名前を、悟は穏やかな雰囲気で見下ろす。


「なかなか一緒にいれなくてごめんね。名前はこう見えて寂しがりだもんね」
「違います……」
「てことで、これ見て、じゃじゃーん! 僕の代わりと言っちゃなんだけどさ、夜蛾学長作の呪骸攫って……じゃなかった、借りてきたから。添い寝用のやつ。今日はコイツと一緒に寝ててね」


 悟は上がり框の上に横たえていた大きな塊を手に取り、名前の前にでかでかと掲げた。大きすぎて視界がそれでいっぱいになる。


「何このキモ可愛なショッキングピンクのワニ」
「だーかーら、添い寝用の呪骸。ちゃーんと女の子のワニ選んできたんだからね」
「あはっ、呪骸にまで嫉妬しないでよ」
「いやするだろ普通」


 ……するっけ?
 余りにも普通のことのように言われ、思わず一瞬考えてしまった。


「あはは、いやしないよ」


 そう言って声を上げ笑った名前に、悟は切なそうに眉を歪めた。
 その表情が気になり、名前は上目遣いに悟を見上げる。


「……ごめん、わたし何か気に障ること言っちゃった?」
「ああ、ううん、違う違う」


 悟は顔の前で手のひらを左右に振った。


「名前の笑った顔が可愛くてさ、なんかちょっと胸に響いちゃって」
「そ、……う」
「僕が絶対取り戻すからね。もうちょっと待ってて」


 頭を撫でてくれようとしたのだろう。宙に浮いた悟の手はしかし、名前の頭上でぴたりと止まり、ゆっくりと戻っていく。

 刹那、名前の唇が“待って”とかたちを作った。

 ──待って。そんなふうに引っ込めないで。

 戻りかけたその手を名前は慌てて追い、両手でしっかりと掴んだ。治療室で目覚めた時の抱擁を除けば、今の名前にとってははじめて悟に触れたことになる。おおきくて、少しひやりとした手だった。

 無性に、泣きたくなった。


「名前?」
「あ、えっと……」


 咄嗟に掴んだはいいものの、その手の行き場に困ってしまう。かといってすぐに離すのも何か違うし、結局少し迷って、自分の胸の前あたりでもう一度しっかりと力を込めて握る。


「その……ありがとう」


 ──ぱちくり。

 真黒な布で隠れて見えぬ悟の瞼が、ぱちりぱちりと瞬いているのがわかる。名前の行動に呆気にとられてしまったためだろうか。それは兎も角、悟が物言わぬせいで照れ臭さばかりが募っていく。

 その無言に耐え抜くこと暫し。
 悟は口元の力を緩め、やわらかな笑みを浮かべた。名前に握られている手に力を込め、握り返す。


「フフ、こっちこそ。じゃ、行ってくるね」
「もう行くの。部屋にも上がってない……わたしにこれ届けるために帰ってきてくれたの?」
「ブッブー。名前に会うために帰ってきたんだよ」
「っぶ」


 そっと手が離れて、代わりにむぎゅっとピンクワニを押し付けられる。顔面に直撃だ。鼻が潰れた。

 悟が身を翻す直前。
 そのおおきな手が、今度こそ名前の頭をぼふっと撫でた。

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