きみの破片が心臓に刺さる
「……ほんとに行っちゃった」
再び一人(+ワニ)になった玄関で、今しがた悟が触れた頭頂を指先で押さえる名前に押し寄せるのは、紛れもなく寂寞だった。
悟がいると、言葉にできぬ安息感と底知れぬ胸の高鳴りを覚える。
悟がいないと、心に目深な穴が空いたような、心臓がしくしくと涙を流すような痛みに襲われる。
ここにいてほしい。
そう、強く思う。
これが今の名前による感情なのか、身体に刻まれた記憶なのか。名前には判断がつかない。
もし前者であるのなら自分は随分と都合のいい女だ、と思う。以前の名前が築き上げた関係に胡座をかき、その恩恵だけを享受し、そのくせ寂寥さえ覚えている。
自嘲さえも飲み込むように、名前は大きく息を吸った。
「……さ。わたしも調べものしないと。書庫から借りてきた文献……って、うわ、何これ何このワニ、えっ?」
突然二足で立ち上がったワニに名前は目を真ん丸にした。立ってみると名前と同じくらいの背丈がある。
その巨大なワニに、よくわからないが突然羽交い締めにされた。咄嗟に身を捩るがまるで身動きができない。
「うっわ、力つっよ! 力強すぎなんだけどこの呪骸! ちょ、ちょっとどこ連れてくの?!」
俵を担ぐかの如く、彼女(多分)の肩(らしき場所)に担ぎ上げられる。まったくなんて姿だ。
そのまま彼女(多分)はスタスタと廊下を進み──何故部屋の構造を知っているのか甚だ疑問だが──、寝室の扉を開け放った。
名前が使わせてもらっている一人には大きすぎるベッドに、放り投げられるという表現が最も近いくらいの勢いでダイブさせられた。
もちろん、ワニと一緒に。
「あっはは、めっちゃ無理矢理添い寝するじゃん。ありがとね、でもまだ寝ないの。調べものしなくちゃ」
そう告げるが、名前を抱きしめるその力は微塵も緩まない。
それどころか、より一層抱え込まれるように包まれ、名前は困り果て眉を下げる。「ワニちゃん、お願い」と口にしかけたところで、名前はとあることに気がついた。
「……? 悟の呪力?」
身を包む呪骸から、僅かにだが感じられる。間違いない。悟の呪力だ。
大元にあるのは夜蛾の呪力に違いないのだが、そこに微量な悟の呪力が混ざっている。
──…落ち着く。この上なく。
まるで悟に抱きしめられているようで、その心地よさに目を細めた。そのまま目蓋を閉じてみる。
バレてた、かな。
悟もロクに寝ていないが、名前も寝ていないのだ。寝食をおざなりにし、己の状態を思案し、原因を探るため手当り次第に文献を読み耽る。
眠れないのだ。
一人でいると、何故だか眠るのが怖かった。本能的な恐怖に近かった。
そうして目の下に薄い隈を作る名前に悟が気づき、こんな方法を取ってくれたのだろう。
「……あったかい」
ぼそりと呟かれた言葉は、名前を抱きしめるワニに吸い込まれた。
「お、ちゃんと寝たね。偉い偉い」
ぽつぽつと侘しく街灯が立つ裏路地を、悟は歩いていた。夜空は曇天。重たい雲が蓋をするように立ち込める。ジジ……と街灯の一つが不規則に点滅していた。
「……ん? アハハ、名前ってばすっかりワニに抱きついて寝てるじゃん。いいなー、早く僕も名前のこと抱きながら寝たい」
焦燥も憤懣も、気が狂いそうなほど抱いている。手探りで必死に悟と生きようとしてくれる名前を見るたびに、悟が今していることは果たして正しいのだろうかと疑念が過ぎる。
それでもこうして名前を想えば湧き起こる、陽だまりに身を置いたような感覚に、確かに救われている。
自然と笑みが溢れた、その時だ。悟が不意に背後を振り返る。
奥まった路地の角、闇の中から見知った気配が近づいてきて「あれ、」と口にした。
「どうも」
「七海じゃん。こんな時間に何でこんなとこいんの」
「決まりきったことを聞かないでください」
サングラスの中央部分を指で押し上げ、七海は無感情に言う。
「……彼女がアナタを思い出さないと、私はいつまでも焼き肉に行けませんから」
「それ僕関係ないじゃん」
「いえ。アナタ方の痴話喧嘩がなければ、私にお誘いはありませんので」
「あ、そうだったの? やだ〜名前ってば何惚気てんだろ〜〜」
「ただの愚痴です。気持ち悪い言い方しないで下さい」
何の冗談か、擦り寄ってくる悟をしっしとあしらいながら、七海は腕時計へと視線を落とした。
「まだまだ夜は長いです。調査を進めましょう。好きに使ってください」
「残業手当つかないよ?」
「は? 馬鹿ですか?」
ジジ……街灯の明暗が揺れる。その下を通り過ぎながら、七海はぶっきらぼうに告げた。
「そんなの、アナタのポケットマネーからいただきますよ」
「アハハ。名前と生計一緒なんだけどー」
露骨に嫌がる七海とガシッと肩を組み、悟は曇天を仰いで笑った。